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<朝晴れエッセー>言えばよかった

産経ニュース 2024年7月18日 5時0分

休日に実家を掃除していると、「ごめんね、あなたも家の用事があるやろうに」と母は言う。「子供ももう大きいしね、お母さんには子供の小さい頃よく面倒見てもらったよね」と言うとほっとしたような顔をする。感謝を述べるのは照れくさいけど、やっぱり口に出した方がいい。

元気印だった父が90歳を目前にして、毎日、放射線治療に通わねばならなくなった。朝一番に迎えに行き、病院で照射してもらって帰る。父はすまなそうに「悪いなァ仕事があるやろうに」と毎度何回も言う。私は「大丈夫、仕事は途中から行くから」とあっさり答えてスタスタと歩いていた。

半年後、がんは消えたのに突然肺炎になってあっという間に逝ってしまった。コロナ禍で付き添いもできなかった。ありがとうも言えなかった。

「結婚前、私が迎えに来てと頼んだらいつでもどこでも車で迎えに来てくれたやん。出産のときには陣痛の起きた私を産院に運んでくれたのは3回ともお父さんだったじゃない。病院の送り迎えくらいお安い御用よ」と目を見て安心するように言えばよかった。

患者でごった返す廊下を縫うように歩く私の後ろを、父は懸命についてきていた。その姿を時折思い出す。言えなかった言葉が心の中で反響する。

西村優紀子(61) 滋賀県守山市

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