Infoseek 楽天

多様性を追求し、新しい扉開く 第35回高松宮殿下記念世界文化賞 受賞者5人の横顔

産経ニュース 2024年9月10日 18時0分

高松宮殿下記念世界文化賞の第35回受賞者が発表された。それぞれの分野で芸術表現を追求し、文化の発展に貢献してきた5部門の受賞者たちの経歴と業績、また同時に発表された第27回若手芸術家奨励制度の対象団体の活動を紹介する。

絵画部門 ソフィ・カル氏 他者を追う探究心原点

フランスを代表するコンセプチュアル・アーティストの一人。他者へのインタビューを通して、詩的な要素を内包する話を探求し、写真と文字を組み合わせた作品を世に送り出してきた。2012年には、フランス芸術文化勲章コマンドールを受章した。

アーティストとしての原点は、他者の声や姿を追った探求心。見知らぬ人を自宅に招き、自身のベッドで眠る様子をインタビューした《眠る人々》(1979年)を出展したことに始まる。「ゲーム」と呼ぶ、自身が決めた設定を基に、他者の人生に向き合った過程で芸術作品となった。

街中で遭遇した人を尾行し、その行動を撮影しながら追跡した《ヴェネチア組曲》(80年)も、他者の人生を映し出した代表作。20代の頃、日々に方向性を持たせるために始めた尾行という行為が芸術につながった。

自分の人生をさらけだす作品にも果敢に挑戦してきた。日本滞在の経験を基に、自らの失恋体験による痛みを写真や言葉で紡ぎだした《限局性激痛》(99~2000年)は日本で特に人気がある。「みんな同じような経験をし、同じ痛みを持っている」。多くの女性の共感を呼んだ理由をそう語る。自らの芸術を描写するのはあくまでも「鑑賞者の仕事」と、作品の評価を一貫して見る人に委ねる姿勢に変わりはない。

交流サイト(SNS)を通じて自身や他者の人生を公開する現代、自らの作風は時代を先取りする格好だったが、その影響は受けていないという。ただ、「アイデアを実現するためにSNSが必要にならないともかぎらない」と話す。世界文化賞受賞の来日で新たなアイデアがひらめくことに期待している。

彫刻部門 ドリス・サルセド氏 暴力の被害者をモチーフに

南米コロンビア・ボゴタを拠点に、彫刻家、インスタレーション・アーティストとして活動している。暴力、喪失、痛みなどをテーマに椅子や衣類といった身近な素材を再利用、再構築しながら表現している。

6歳でデッサンのレッスンを受け始めた。ボゴタのホルヘ・タデオ・ロサノ大で美術を学び、1980年代初頭に渡米。ニューヨーク大大学院で美術学修士号を取得した。

コロンビア革命軍(FARC)などの左翼ゲリラと政府軍、右翼民兵組織との間で半世紀以上続いた内戦が創作活動の原点。「コロンビアで育ったことで、私は世界を見る視点を得た」という。

全ての作品は暴力の被害者がモチーフ。自身の作品について「第一に、暴力が簡単に忘れ去られないように暴力の証人となること。第二に、作品を通して被害者の苦しみへの共感を示すこと。第三に、世界で起きていることを批判的に分析・思考する言葉でありたい」と語る。

ロンドンのテート・モダンから委嘱を受けタービンホールの床に亀裂を創出し、人種差別といった問題を表現したインスタレーション《シボレス》(2007年)でその名を世界に知らしめた。

作品《フラグメントス(断片)》(18年)は、FARCの戦闘員が自主的に差し出した37トンの武器を溶かして造られた1296枚のタイルを、ボゴタの展示会場に床として配置した。現在、人の髪の毛を使った作品を制作中。ウクライナやガザなどで目撃される「被害者を苦しめ、強制的に移住させることを目的とした故意による家の破壊」を扱っているという。

ヒロシマ賞、ナッシャー彫刻賞(米)など受賞多数。

建築部門 坂茂氏 紙管利用した独創的着想

紙管という独創的な素材選びと革新的デザインにより、建築の世界で新たな地平を切り開いた。

中学時代に作った住宅模型がきっかけで建築家を志した。当初は小学生の頃から熱中したラグビーとの両立を考えていたが、高校の全国大会で初戦敗退、進路を建築の道に絞った。

米南カリフォルニア建築大からニューヨークのクーパー・ユニオン建築学部に編入。卒業後に帰国し、1985年に事務所を設立した。展覧会キュレーターの仕事も行う中で、フィンランドの建築家、アルヴァ・アアルトの展覧会でファクス用紙の芯を木の代替として使用したことをきっかけに、紙管を建築構造に使う開発を進めてゆく。

紙管の建築は、95年のルワンダ内戦の難民シェルターや、同年の阪神大震災の仮設住宅建設などで用いられた。こうした仮設住宅の建設は99年のトルコ北西部地震などで国際的な広がりを見せ、国内でも2011年の東日本大震災、今年1月の能登半島地震で高い評価を得ている。

また、阪神大震災を機に立ち上げた被災者の住環境を支援するボランティア団体「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)」もNPO法人化し、国内外で被災地支援活動を行っている。

うねる集成材と膜材の屋根が特徴の「ポンピドー・センター メス」(10年)など、印象的な建築も設計した。14年、建築界のノーベル賞と称される米プリツカー賞を受賞。今年6月には、広島県大竹市の「下瀬美術館」(23年)が「水に浮かぶ可動式展示室が革新的」として、ユネスコの「世界で最も美しい美術館」(ベルサイユ賞)に選ばれた。

音楽部門 マリア・ジョアン・ピレシュ氏 身体全体で独自の奏法構築

現代を代表するピアニストの一人。3歳のときに独学でピアノを始め、楽譜を読めるようになる前に、耳で曲を覚えて弾いてみせた。

リスボン国立音楽院で作曲と音楽理論を学んだ後、17歳でドイツに留学。「音や呼吸など大切なものは、技術以前に存在します。私は手が小さかったし、イマジネーションを実現するには、知識や技術だけではなく身体全体を使う必要がありました」と、独自の奏法を模索した。

1970年にベートーヴェン生誕200周年記念コンクールで優勝し、86年にロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで初リサイタルを開いたのを皮切りに国際舞台での活躍を始めた。

録音作品は、ドイツの名門「グラモフォン」などから発表している。

99年、「想像力を使って、今より少しは良い世界を作るための場所」として、ポルトガル東部に「ベルガイシュ芸術センター」を設立した。

ここで農村出身の子供たちのための合唱団を率い、実験的なコンサートやプロ、アマを問わないワークショップを展開。また、2012年にはベルギーで、恵まれない環境の子供たちのための合唱団を結成するなど独自の活動も行っている。

69年の初来日以来、大の親日家で、来日の際は公演の合間に文楽や歌舞伎など日本の古典芸能を鑑賞することを楽しみにしている。

「日本は私に、物事の本質とは何かを教えてくれる国。世界文化賞の受賞以上の名誉はありません」と語る。

08年には、NHK教育番組「スーパーピアノレッスン」で講師を務めた。今も世界各地で若手ピアニストに指導を続けている。

演劇・映像部門 アン・リー監督 芸術性と娯楽性を両立

米国を中心に活動する台湾生まれの映画監督。洋の東西を超えて時代の奔流と向き合う人間を描く芸術性と、観客を魅了する娯楽性を両立させた作品で、名声を得ている。

父親が校長を務める高校在学中に映画に夢中になり、大学受験に失敗した。進学した台湾芸術学校(現・台湾芸術大)で「演劇こそ私の居場所」と確信し、卒業後に兵役を経て渡米。イリノイ大アーバナ・シャンペーン校で演劇を、ニューヨーク大大学院で映画制作を学んだ。

ニューヨーク在住のまま、台湾出身の父母と米国で暮らす息子の再会を描いた「ウエディング・バンケット」(1993年)と米英合作「いつか晴れた日に」(95年)で、2度にわたりベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。「私をプロの監督にしてくれた」という「いつか晴れた日に」は、アカデミー賞でも7部門にノミネートされ、ハリウッドで脚光を浴びた。

男性同士の愛を描いた「ブロークバック・マウンテン」(2005年)でアカデミー賞監督賞を初受賞。この作品と、日本軍占領下の上海を舞台に女スパイの情愛を描いた「ラスト、コーション」(07年)で、ベネチア国際映画祭金獅子賞を2度にわたり受賞した。

救命ボートでトラと漂流する少年の運命を描いた3D映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(12年)で、2度目のアカデミー賞監督賞を受賞した。

台湾生まれの父親を持つ是枝裕和監督との付き合いが長い。台湾から初めての世界文化賞受賞となり、「本当に大変光栄で、胸に刻みます。台湾がこのように認められることをとても誇りに思います」と喜びをかみしめた。

(インドネシア)

コムニタス・サリハラ芸術センターはインドネシア初の民間複合文化施設で、演劇、舞踊、音楽から文学、思想と多岐にわたり、自由で民主的な芸術活動を推進している。軍事政権下で芸術活動の自由を求めて結成された組織を母体に2008年、芸術家らの支援でジャカルタに創設された。思想と表現の自由を守る意識は高い。

活動の特徴は、若い人材の公募と、分野を超えた学際的な取り組みにある。多様性を尊重し、あらゆる芸術の動向に反応して、斬新なアイデア、新しい才能を育て、その一方で、観客の批判的な目を養っている。

3800平方メートルの敷地に室内劇場やスタジオ、ギャラリーがそろい、イベントは年間100件以上に上る。伝統を現代の視点で見直した演劇や舞踊の上演、現代作家に焦点を当てた文学や思想の紹介、民族音楽と現代音楽の融合など、専門のキュレーターを中心に主催する国際芸術祭は国内外で注目されている。

ニルワン・デワント理事(統括キュレーター兼プログラム・ディレクター、詩人)は「プログラムに重点を置き、芸術と批判的に関わりながら、地域とコミュニケーションをとる方法を考える必要がある。緊密に協力することで、表現の自由をより育み、新しい才能を紹介することができる」と話している。

世界文化賞

58年間にわたり財団法人日本美術協会の総裁を務められた高松宮殿下のご遺志を継ぎ、また協会創立100周年の記念事業として昭和63年に創設。国際顧問が主宰する各専門家委員会から推薦された絵画、彫刻、建築、音楽、演劇・映像の5部門の候補者を日本の選考委員会で審査し、理事会で決定する。平成9年には「若手芸術家奨励制度」が設けられ、次代を担う芸術家の育成にも努めている。

国際顧問

伊元首相、ランベルト・ディーニ▽英オックスフォード大学前名誉総長、クリストファー・パッテン▽独ゲーテ・インスティトゥート前総裁、クラウス=ディーター・レーマン▽仏元首相、ジャン=ピエール・ラファラン▽元米国務長官、ヒラリー・ロダム・クリントン

名誉顧問

米ニューヨーク近代美術館理事、デイヴィッド・ロックフェラーJr.▽仏フランソワ・ピノー現代美術財団理事長、フランソワ・ピノー▽米メトロポリタン美術館元理事長、ウィリアム・ルアーズ

日本美術協会

明治12年創立の「龍池会」を前身とする公益財団法人。日本固有の文化を守り、復興しようと明治政府の要人、佐野常民を会頭に結成された。同20年、東京・上野で美術展示館(列品館)の建設に着手、龍池会を改組して日本美術協会を設立した。初代総裁に有栖川宮熾仁親王殿下を迎え、現在は常陸宮殿下が総裁を務められている。昭和47年、美術展示館を「上野の森美術館」と改称。同美術館大賞展など活発な活動を続けている。

この記事の関連ニュース