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三島由紀夫自決 見届けた元陸自隊員の日記公開 「右手の中指を…」「二太刀で首切れた」

産経ニュース 2024年7月21日 10時0分

昭和45年11月25日、作家の三島由紀夫=当時(45)=が東京・市谷の陸上自衛隊施設に立てこもって自刃した事件を巡り、現場で間近に居合わせた元隊員が当時の一部始終をつづった日記があることが分かった。現在は病床にある元隊員に代わり親族が産経新聞の取材に応じ、日記を初めて公開するとともに、本人から伝え聞いた生々しい描写を代弁。あの日、何が起きたのかを国民が思い返すきっかけにしてほしいと訴えた。

「11月25日 水曜日 晴」

《11月25日 水曜日 晴》。陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)にあった東部方面総監部で、益田兼利(ました・かねとし)総監の秘書的な役割を担う「業務室」勤務だった磯邊順蔵さん(85)。もともと筆まめな性格で、日々の出来事をノートに記していたが、この日は分量が圧倒的に多い。

すでに日本を代表する作家として確固たる地位を築いていた三島が、益田総監を人質に取って総監室に監禁。バルコニーから自衛隊員を前に、憲法改正に向けた「クーデター」を呼びかけたのち、割腹自殺するという、前代未聞の事件が起きた。

当時31歳の2曹だった順蔵さんの日記には、三島と、三島が結成した民間防衛組織「楯(たて)の會(かい)」のメンバー4人の計5人が総監室を訪れた午前11時以降、5分間の出来事が以下のように記されている。

《1100 三島由紀夫氏以下5名来監する》《1102 (同僚の)木村佳枝2曹と、自分の2人でお茶を出す》《1105 三島以下5名、益田方面総監をしばり日本刀をぬく。乱入するも右手の中指を刀で切られる。益田総監を助けに行くも人質にとられているために助けられず》

モップと消火器で応戦

「主人は益田さんを救い出そうと、業務室にあったモップを持ち出し、三島の日本刀と対峙(たいじ)したそうです。先端が切り落とされ、ただの棒のようになったモップは、今も大切に保存してあります」

東京・練馬で暮らす順蔵さんの妻、眞知子さん(74)は、夫から幾度となく当時の話を聞いた。生々しい描写は、枚挙にいとまがない。

三島らの一行はこの日、事前に益田総監との面会の約束を取って来訪していた。順蔵さんはお茶を出し終えたあと、総監室に隣接する業務室で数人の担当者と待機。だが、終了の予定時間を過ぎても誰も出てこない。誰かが小窓からのぞくと、ロープで両手両足を縛られた総監が見えた。

順蔵さんは上司に「窓ガラスを割っていいですか」と確認。近くにあったモップを携え、総監室に突撃した。銃剣道有段者だった順蔵さんだが、中にいた三島は銘刀「関の孫六」で向かってくる。何度か柄で刃を退けたものの、ついに先端部分を切断されてしまう。

順蔵さんは諦めない。いったん総監室を出たのち、今度は消火器で応戦。三島らに噴射した。乱闘により応接の机や椅子、本棚はひっくり返り、そこかしこに血も飛び散った。

最後は押し切られ、順蔵さんらは室外に再び追いやられた。そしてバルコニーに移った三島は、かの演説に臨んだ。

首元に新聞紙を…

だが、その一世一代の訴えは、隊員らからの強烈なヤジと報道のヘリコプター音によってかき消される。心が折れたのか、三島はわずか10分程度で総監室に戻り、自らの腹に刀を突き立てた。楯の會のメンバー、森田必勝が介錯(かいしゃく、苦痛軽減のため本人の首を切り落としてやること)した。

順蔵さんはその一部始終を目撃していた。日記には、こんな言葉が並ぶ。

《(三島は)自分で切腹をし、森田必勝に介錯をさせ、首を切られ死ぬ。二太刀で首が切れる》

眞知子さんによれば、順蔵さんは三島から3メートルほどの位置に座り、切腹の様子を見ていた。「三島は腹をかなり深く刺したようで、身体が前かがみになった。そのため森田は手元が狂い、1回では首を落としきれなかった。だから2度目の刀を振り下ろした、と」。

このときの心境を順蔵さんは、「『一体何が起きているのか』というような気持ちで、ただあぜんとしていた」と回顧。途中、止めに入るなどした人間がいたかは定かではないが、「最後には、益田総監も含め総監室にいた全員が、静かに様子を見守っていた」と振り返ったという。

その後、森田も自害。緊縛を解かれた益田総監は、床に転がった2人の首を机に並べて弔おうとした。三島のほうは複数回の太刀で切断面が粗くなって直立しなかったため、益田総監は順蔵さんに新聞紙を持ってくるように指示。自らの手で首の下へ、あてがった。

「合掌」。益田総監の掛け声で、一堂が手を合わせた。三島らの来訪から、およそ1時間半が過ぎていた。

「親友のようだった」2人

「益田さんと三島には武士道の精神という共通項があり、互いに信頼関係を築いていたのでしょう。益田さんなりに三島に敬意を表したのではないか」。一連の益田総監の行動について、眞知子さんはそうおもんばかる。

この日以外にも、三島は自著が発刊されるたびに益田総監のもとを訪れるなどしていたといい、「2人は親友のようだった」とする関係者の証言も聞いたことがあるという。

事件は、「時代錯誤の愚挙」「常軌を逸した行動」とも評される。ただ、根底に、日本の行く末への憂いがあったことは間違いない。

順蔵さんは5年ほど前、後世への伝承のために資料整理を始めた。その最中に病に倒れ、発語が不自由となり、家族に思いを託した。眞知子さんは、「月日が過ぎ、当時を知る人は少なくなってきた。主人の日記が、事件の全体像はもちろん、関係者1人1人の思いや当時の時代背景など、細部を知るきっかけにもなれば」と期待を込めた。

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