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「ガングロ族」を滅ぼしたのは…著者の久保友香氏 ネットの普及で渋谷のギャル文化減退

産経ニュース 2024年9月4日 12時12分

極端に日焼けした肌に脱色した髪、濃い化粧―。かつて渋谷の街にあふれた「ガングロ」の女性たちは、なぜ生まれ、どこに消えたか。メディア環境学者の久保友香氏が、ギャル文化の源流を「海へのあこがれ」とメディア環境の変化で解き明かした「ガングロ族の最期 ギャル文化の研究」(イースト・プレス)が話題となっている。久保氏はガングロについて「渋谷の街で女の子とマスコミが育て、インターネットが滅ぼした」と分析している。

雑誌と女性の相乗効果

水着姿のガングロの女性を描いた表紙(「フリムンの踊り」、作・近藤智美)が強く目を引く。

久保氏は「これはガングロの中でも、1999年ごろ、日焼けや化粧がより濃くなった『ゴングロ』であり、かつ『ヤマンバ』と呼ばれたスタイルです」と解説する。

ガングロは90年代後半から2000年代後半にかけて若い女性に流行した。なぜ、これほど過激な装いが生まれたのか。

久保氏は「当時、独自の流行を発信していた渋谷の一般の若者を取り上げていた『ストリート雑誌』の存在が大きい」と語る。

1994年ごろ、「東京ストリートニュース!」や「egg」などのストリート雑誌が次々と創刊。掲載された女性たちが人気を集め、「会いたい」「自分も取り上げられたい」という女性たちが、渋谷に集まった。より目立つ者が掲載されたため、「マスコミと女の子たちの双方向のやり取りの中で、ファッションが過激化していった」と久保氏は解説する。

残された「海へのあこがれ」

「ガングロ族―」では、渋谷に若者が集まり、独特の文化を生み出すまでの過程を、幅広い世代への取材や、書籍などから解き明かしている。

彼女たちは、なぜ渋谷で黒い肌にこだわったのか。

久保氏は、18世紀の英仏で、人々が治療目的で海岸に通い始めた時点から日焼けの歴史を紹介。渋谷に日焼けした若者が集まったのは、1977年ごろからのサーフィンブームの影響が大きい、と分析する。

「闇市起源の米国の古着屋が多く、当時は家賃が安かった渋谷に、米国文化を愛するサーファーが集まった。彼らが服や雑貨の店を出し、それを目当てに日焼けしたビーチファッションの若者が集まったようです」という。

サーフィンの流行は去り、日焼けサロンの登場で海に行く必要もなくなる。90年代前半には米国へのあこがれも薄まった。

久保氏は「海では、他人に気軽に話しかけるのも、拒否するのも自由だ。そうした『個人主義を守りながら集団を形成できる』機能へのあこがれ、つまりビーチイズムだけが渋谷に残された」と説明する。

「彼女たちは渋谷を海に“見立て”ていた」というのが久保氏の仮説だ。

同書には「egg」1999年9月号に掲載された、ゴングロの女性4人が、渋谷のスクランブル交差点を水着で渡る象徴的な写真が紹介されている。久保氏はこの写真について「想像の極致としてのビーチ」と記している。

ネットが滅ぼしたもの

「ギャルブーム完全終わりましたね」「ここまで終わると思ってなかった」

これは「ガングロ族―」に取り上げられた、2008年にマンバ(ヤマンバの進化系)だった女性が記したブログの一部だ。

この頃、渋谷からガングロが姿を消した理由を「インターネットに滅ぼされた」と久保氏は説明する。

07年にスマートフォンの初代アイフォーンが発売、09年には日本でツイッターのサービスが始まる。ネットの時代になり、簡単に全国の同じ趣味の者同士がつながれるようになった。

「もはやガングロのような外見で仲間を見分け、交流する必要がなくなった」

ネットの普及で、その場所に行かないと得られない情報も少なくなった。1970年代後半から流行を生み出し続けた渋谷の街は力を失った。

こうしてガングロ族は最期を迎えた。

久保氏は「でも仲間を見つけたり、トレンドを生み出したりする機能は、より強化され受け継がれた。形を変えただけで、実は何も失われてはいないのではないでしょうか」と語った。

(岡本耕治)

久保友香

くぼ・ゆか 1978年、東京生まれ。慶應大理工学部卒。東大大学院新領域創成科学研究科博士課程修了。同大先端科学技術研究センター特任助教など歴任。日本の視覚文化の工学的な分析や、女性が自分の画像を加工する際の技術「シンデレラテクノロジー」の研究に従事。著書に『「盛り」の誕生―女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識―』(太田出版)。

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