晩秋の頃、庭先には菊の花が咲いている。菊が祖母を追憶させ、伯父たちを想像させる。
祖母は40歳のとき、夫を亡くし母子家庭となり、苦労の連続だった。わが子たちに刻苦勉励させ、私の伯父や母、叔母はその期待に応えた。が、長男の伯父はスキー事故死、二男、三男の2人は20歳過ぎで相次いで、比国で戦死した。亡き母によると、戦死公報を受け取る祖母は涙を一滴も流さず気丈に振る舞ったが、人陰(ひとかげ)ではむせび泣いていたという。
70歳を過ぎる頃、祖母は死期を悟ったのか、息子たちの遺品やアルバムを整理した。死後、母は兄の遺影を書棚に置き、寄り添い生きた。
私は3人の伯父を知らないが、妹たちへの琥珀(こはく)色になったはがきの「母を守り、たくましく生きよ」の遺言から出征時の悲壮な伯父の心が分かる。伯父たちは異国の戦地で無念の最期を遂げたが、遺骨は故郷にまだ帰ってこない。
祖母は、中学生だった私に当時の生活を厳寒に耐えて咲き続ける「寒菊」に例えた。「私たちはつらかったが、寒菊のように生きてきた」と。私は今も寒菊を知らないが、世の中の人々の励みとなる花だと思う。
墓参りの私は祖母と伯父たちに秋菊を手向け、合掌した。涙目が南の空を曇らせていた。
稲葉学(70) 大津市