感じられない文学の素養
米大統領選投開票日の前日にこのコラムを書いている。結果の分析と日本をはじめとする世界への影響については専門家にお任せするとして、長期にわたる選挙戦を眺め、感じたことを記しておきたい。
あくまでも個人的な考えだが、政治指導者には文学の素養が絶対に必要だと固く信じている。そのきっかけとなったのは、実業家、著述家の執行草舟(しぎょうそうしゅう)さんが『根源へ』において、プロイセンのフリードリヒ大王に触れた次の言葉だ。
《フリードリヒ大王は有名な言葉をたくさん残しています。しかし、それらは『プルターク英雄伝』やホメーロスの『イリアス』『オデュッセイア』をはじめとするギリシャ・ローマの古典から取られている言葉が多いのです。つまり、そういう言葉こそが、真に兵士や人を動かす言葉だと知っていたのです。(略)過去の偉大な言葉だけが、真に人を動かすのです》
第一次世界大戦でフランスを勝利に導いたジョルジュ・クレマンソー首相(当時)についてはこう記す。
《彼は手紙にこう書いています。「第一次世界大戦を戦い続けることができたのは、古典文学の力に負うところが大きい。いかに疲れた日でも、ギリシャ・ローマの古典文学を読むと、その清らかさに心が癒(いや)される」と》
文学とは民族のルーツの「記憶」につながるものであり、その記憶を呼び戻す力を持ったものなのだ。古典ともなれば、その力の及ぶ範囲は民族にとどまらない。
さて、米大統領選についてだ。簡潔に感想を述べよう。非難と揚げ足取りの応酬に終始した、下品で安っぽいショーのようだった。2人とも世界をリードすべき超大国の指導者として、否、どんな小国の指導者としても、ふさわしい候補者とは私には思えなかった。
その最大の理由は、2人の言葉には文学の素養が決定的に欠けていると感じたからだ。おそらく2人ともギリシャ・ローマの古典は言うに及ばず、シェークスピアの戯曲も本気で読んだことがないだろうと私は推測している。何しろ言葉が浅いのだ。
歴史が浅く、多様な民族で形成された国の国民には、文学に根差した深い言葉よりも、むしろ浅い言葉のほうが届きやすいということなのかもしれない。
「政治は言葉」とはよく耳にするフレーズだ。その真意は、ワンフレーズを大声で飽きるほど繰り返し、聞き手を扇動することではなく、相手の心を揺さぶり、思索へといざなう誠実な言葉こそが政治家に求められる、ということではないだろうか。私はそう理解している。残念ながら2人の候補者の言葉のベクトルは、明らかに扇動だった。余計なお世話だろうが、「こんな候補者しか立てられないアメリカよ、大丈夫か?」というのが私の率直な思いである。
見つからない対話の回路
2人の候補者よりも気になったのが、アメリカ社会の深刻な分断だ。民主・共和両党の支持者の間には憎悪しかないように見える。
ジャーナリストの青木理さんが9月12日に配信したユーチューブの番組で、ジャーナリストの津田大介さんに「人々はなぜ自民党に入れ続けるのか?」と問われ、「一言で終わりそう。劣等民族だから」と答えた。両党の支持者も青木さんと同様の感情を敵に対して抱いているように感じる。現時点では、対話の回路を見いだすのはなかなか難しそうだ。
このような状況を生み出した要因のひとつに、インターネットとソーシャルメディア(SNS)の日常生活への深い浸透があるのは間違いない。
インターネットの検索履歴やクリック履歴などの情報をもとに、利用者の好みや思想に合わせた情報が表示されることで、自分が見たい情報しか見えなくなり、いわば視野狭窄(きょうさく)に陥らせる「フィルターバブル現象」、そしてSNSやインターネット掲示板などで、自分と似た興味や関心を持つユーザー同士でつながった結果、自分と似た意見ばかりが返ってくることで、自分の考えこそが正しいと勘違いさせてしまう「エコーチェンバー現象」のダブルの効果によって、思い込みの激しい人々が増殖してしまったのだろう。
「われこそ正義」という思い込みや情熱ほど危険なものはない。「寛容は価値なし」と言わんばかりにゴミ箱に投げ込み、敵とみなした相手には容赦ない攻撃を仕掛ける。人間の歴史を振り返れば、宗教戦争を挙げるまでもなく「われこそ正義」の激しい思い込みは、何度も何度も悲劇を引き起こしている。人間は歴史に学ばない。いや、学べないというべきか。
いまさらモンテーニュの言葉を紹介したところで何になるのか、と思うものの、石を投げ込まない限り波紋は生じない。そう思い直して記しておく。
《人間は一般に、自分の意見を押しとおそうとするときほど、一生懸命になることはない。われわれは普通の手段で間に合わないと、命令や、暴力や、剣や、火を加える。真理の最良の試金石が、それを信ずる者の数が多いということ、しかも、賢者よりも愚者がはるかに多い群衆の中でそうだというのは不幸なことである》(『エセー』第3巻第11章「足なえについて」原二郎訳)
肉体労働を続けながら思索・著作活動にいそしみ「沖仲仕の哲学者」と称されたアメリカの社会哲学者、エリック・ホッファー(1902~83年)は、アフォリズム集『魂の錬金術』(中本義彦訳)にこんなことを書いている。
《集団的羞恥といったものがあるかどうかは疑わしい。集団的憤怒はある。集団的プライドも、集団的高揚ももちろんあるが、集団的羞恥はない。他者と連帯するとき、われわれはほとんどつねに自分より強者と組んでいるように感じる。そして、そうした人びとと罪を犯すと、自責の念を感じなくなってしまうのだ》
どちらの言葉も、前回の大統領選後に起きた連邦議会議事堂襲撃事件を思い起こさせる。今回、何も起こらなければいいのだが…。
最後に、前掲書からもうひとつホッファーの言葉を紹介しておこう。
《「もっと!」というスローガンは、不満の理論家によって発明された最も効果的な革命のスローガンである。アメリカ人は、すでに持っているものでは満足できない永遠の革命家である。彼らは変化を誇りとし、まだ所有していないものを信じ、その獲得のためには、いつでも自分の命を投げ出す用意ができている》
共和党であろうが民主党であろうが、アメリカを突き動かしているのは「もっと!」である。それこそがアメリカの活力の源泉ではあろうが、同盟国であるかぎり、わが国はこの欲望に正面から向き合わざるをえない。難儀なことだ。(桑原聡)