前作『母の遺産 新聞小説』から、実に12年ぶりとなる新作小説。この間は自作の英訳作業に没頭していたが、英訳者との間での「文化的摩擦」を痛感したという。
「例えば姉という言葉ひとつをとっても、英語圏ですっきり読ませるためにはシスターと書くしかない。三姉妹が登場する『本格小説』では、長女・次女・三女の順番が大きな意味を持つのに。もう私自身が翻訳小説を書こう、と思ったんです」
今作の主人公、ケヴィンは資産家一家に育った米国人の男性。イェール大の大学院で日本文化を研究した後に来日し、ふいに『枕草子』や『源氏物語』の一節が口をついて出る古典通だ。伝統美を失った現代の日本に失望を重ねつつも、その残響を追い求めてしまう。
小説は南米各国の大使を務めて日本に戻った篠田周一とその妻、貴子との出会いをケヴィンが振り返る日本語の手記という体裁をとる。
自身は12歳で渡米し、大学で日本近代文学を教えるなど長く米国に滞在した。「私も日本人の目になって書くというのはそれなりに難しくて。『續(ぞく)明暗』の前から、外国人男性目線の物語を書きたいなと思っていた」と明かす。
英訳作業と並行して、『谷崎潤一郎全集』(中央公論新社)に読みふけった。特に印象に残ったのは『蘆刈(あしかり)』と『春琴抄』。「現在に生きながら、過去の時間を読者の前に描く」ことに腐心した谷崎の手法を強く意識した。
「転換期以降の谷崎作品は『今の時代をちょっと忘れましょう』と読者を結界の中に連れていくお話。今の日本でどうすればそういう物語を作れるのかと考えて、旧い日本人の姿を残す貴子のキャラクターが生まれた」
「京都の旧家の出」と噂される貴子の出自を巡り、物語は時代や国境を超えて紡がれていく。織りなされるのは、数奇な運命をたどった日本文化の継承の歴史でもある。
「グローバリズムの中では、意識的でないと自国の文化が消えてしまう。私も日本語の書き言葉を引き継いでいきたい」 (村嶋和樹)
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みずむら・みなえ 小説家、評論家。東京都生まれ。12歳で渡米しイェール大仏文科卒業、同大学院博士課程修了。平成2年に『續明暗』で芸術選奨新人賞、14年に『本格小説』で読売文学賞、20年に『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞を受賞。
『大使とその妻 上・下』水村美苗著(新潮社・各2200円)