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「零戦」で戦ったわが1200日 撃墜数18機の谷水竹雄・元海軍飛行兵曹長の綴る秘話 ミリタリー誌「丸」10月号

産経ニュース 2024年9月6日 11時0分

大東亜戦争中盤以降、米軍は宿敵である日本海軍のゼロファイター(零戦)に対抗すべく高性能な新型戦闘機を次々と投入してきた。これに対抗するため日本は、攻撃力や防御力を向上させた「後期型」となる「零戦五二型」を開発、実戦に参加させた。ミリタリー誌「丸」10月号の「零戦五二型」特集から、大戦後半のエースパイロットとして知られる谷水竹雄氏(撃墜数18機)が「丸」1992年10月号に寄稿した手記の抜粋を紹介します。「丸」本誌では新米パイロット時代のドーリットル初空襲から、ラバウル航空戦、零戦五二丙型に搭乗しての本土防空戦、終戦までの3年半におよぶ苦闘を全文掲載しています。

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本土初空襲の日の6空初陣

第6航空隊は、昭和17年4月1日、千葉県木更津基地で編成され、同時に第26航空戦隊に編入された戦闘機隊だった。司令森田千里中佐(海兵49期)、飛行長玉井浅一少佐(海兵52期)、飛行隊長新郷英城大尉(海兵59期)、分隊長宮野善治郎大尉(海兵65期)のもとで、太平洋戦争の緒戦いらい目ざましい活躍をして、内地に帰って来た3空、および台南空からの転属搭乗員を基幹として編成されたものであった。

しかし、大半の搭乗員は前年末と3月に、飛練過程を卒業した20歳前後の若い搭乗員で占められ、訓練は激しく、またその内容も実戦的であったが、鶴首してまたれた零戦も生産数不足のためか、定数60機はなかなか揃わなかった。

昭和17年4月18日朝、基地の通信講堂で通信訓練を行なっていたとき、『敵飛行機3機、敵空母2隻見ゆ、北緯36度、東経152度10分(犬吠崎東方約600浬)に発見、われ攻撃を受け応戦中』との無線通信が哨戒艇より発せられた。

これは、日本本土初空襲を意図する米空母「ホーネット」を旗艦に、同じく、空母「エンタープライズ」、重巡洋艦4、駆逐艦7、タンカー2隻からなるハルゼー少将指揮のアメリカ第16機動部隊であった。

上空哨戒機と護衛の巡洋艦が同時に日本側の監視艇を発見、攻撃を加えたのだ。

早速6空は零戦に全弾装備し、増槽も取りつけられて待機に入った。

一方、第11航空艦隊麾下の三沢空および木更津空の一式陸攻29機も魚雷を装備して発進のときを待ったが、なかなか発進が令されない。

岡本先任搭乗員に、なぜか? と、そのあたりの事情をたずねると、「もうすこし本土に近づけてから攻撃に出る」といわれた。

敵空母発見できず

正午をまわった12時30分ごろ、その後の情報が入らぬまま、ついに攻撃隊発進が令された。零戦は次々に列線をはなれて出発点に向かう。地上員はみな〝帽振れ〟でその出撃を見送った。

雷装の一式陸攻が飛び立ち、これを掩護する新郷飛行隊長指揮の6空戦闘機隊12機も、木更津を発進して、犬吠崎東方600浬地点に向かった。

ところが、攻撃隊が発進してすぐ「空襲警報」が発令され、敵襲が報ぜられた。

また、陸軍からの情報で、『敵双発機発見、九七戦では追いつかず』と報ぜられ、思わず苦笑をもらしてしまった。早速待機中の6空零戦が3機、迎撃に上がったが、会敵せずに帰投した。

その後、なかなか味方攻撃隊よりの報告がなく、指揮所でイライラしていたとき、『敵空母発見できず、これより帰投する』との無線が指揮所にとどいた。

後日の報道によると、米空母「ホーネット」が発見されたのが18日の0630、そして米巡洋艦の砲撃によって監視艇が撃沈されたのが0700ちょっとすぎだったとのこと。このわずかの間に日本の監視艇は当然、『敵発見』を打電しているはずだから、彼らは日本軍による攻撃を予想して、予定より早く搭載するB-25を発艦させるや、ただちに「ホーネット」は反転して、東方洋上に逃げ去ったのであろう。

その悲運の監視艇は「第二十三日東丸」といい、開戦後にわれが本土太平洋海岸からおよそ500浬から700浬の間に配置した、100トンにもみたない海軍の徴用漁船群の1隻であったが、敵巡洋艦の砲撃と艦載機の爆撃のため撃沈されてしまったので、それ以上の情報はえられなかった。

初の日本本土空襲

完全に肩すかしを食ったわが攻撃隊は、世界に誇る九一式航空魚雷を抱いたまま、夜になってからむなしく帰って来た。

新郷飛行隊長以下のわが戦闘機隊も帰投して、夜間着陸がはじまった。

わが6空戦闘機隊が列線にもどり、陸攻隊が着陸をはじめてしばらくたったころ、突然、主滑走路に火の手があがった。陸攻隊の何番機かが着陸に失敗したらしい。魚雷を抱えているので誘爆が心配されたが、木更津空の消火隊の決死的な作業により、どうにか誘爆だけはまぬがれ、全員ホッとした。

一方、奇襲に成功したドーリットル爆撃隊は、少数機に分かれて東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などを空襲したあと、低空で離脱して中国大陸方面に避退したという。

これこそアメリカ軍による、開戦以来最初の日本本土空襲であった。爆撃そのものは大したことはなかったが、このことが山本連合艦隊司令長官に、ミッドウェー攻撃を実施させる決心をかためさせたといわれる。

※「丸」1992(平成4)年10月号を改訂のうえ抜粋再録

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