「東大入学より、なるのが大変」といわれる将棋のプロ棋士。ほとんどの場合小中学生から養成機関「奨励会」で切磋琢磨(せっさたくま)を続けて棋士になるが、中学受験と両立した人もいる。日本将棋連盟で常務理事を務める棋士、西尾明さん(45)は、その一人だ。「決して勉強は好きではなかった」という西尾少年が目指したのは、将棋部が強い難関中学だったが…。
「すごく強い人がいる」
将棋の腕は小学4年生でアマチュア4段くらい。大人に勝つことも多く、小学生の全国大会で準優勝した経験もあったんです。それが、麻布中学・高校の文化祭に行ったときに、将棋部の高校生と指して負けました。「この学校にはすごく強い人がいるんだなあ」と印象に残りました。東京では「御三家」の一角をなす名門私立中学です。
やがて2つ上の兄が麻布に通いだし、毎日私服で家を出るのを見て「自由でいいなあ」。将棋部も強いし、自分も行ってみたいと思いました。
小学生の頃から将棋の道を目指して奨励会に通っていましたから、塾には定期的には通いませんでした。勉強は自宅で母に見てもらい、教材は兄のお古でした。
10年以上将棋漬けの生活を送っても、棋士になれなかった人はたくさんいる厳しい世界です。将棋の勉強もしなければなりません。
受験勉強に本腰を入れ始めた小学6年の夏休み以降は、お古の過去問を解き、週末ごとに大手塾の模試を受けて立ち位置を確認。奨励会の対局が近づくと将棋の勉強をしつつ、受験勉強もしつつ、という感じです。
学校の成績は結構よかったんですけど、決して勉強が好きではなく、自主的にいろいろ勉強していくタイプでもなかった。模試の判定は、第1志望の麻布がボーダーライン。第2志望の浅野中学・高校(横浜市)はほぼずっとA判定だったと思います。こちらも自由な校風が気に入って志望しました。
初の受験が大本命で、ド緊張
よく覚えているのは、2月1日、麻布の受験日のことです。初の受験にして大本命の本番でした。横浜の自宅を出てJR線に乗り、恵比寿で地下鉄(東京メトロ)に乗り換えて満員の日比谷線に…その時点で、ものすごく緊張しました。そのせいか、試験は「うまくいかなかったな」と手応えがなく、やはり不合格でした。
続く浅野は、模試の判定がよかったので「大丈夫、大丈夫」と落ち着いて受験。合格しました。
母校の浅野は「ザ・男子校」の雰囲気。自由に何でもやらせてくれる学校だったので、将棋に打ち込んでも、強く「勉強しろ」と言われることもなく、過ごしやすかったです。まあ、将棋もあったのであまり学校の勉強に力を入れてはおらず、入学後の成績は落ちていったのですが。
将棋部はあったものの、当時はあまり強くなかった。入部はしていませんでしたが、将棋部の部長に対戦を挑まれて指したのは、いい思い出です。そんな母校が令和6年、文部科学大臣杯の団体戦で初優勝したんです。ものすごく強くなって、うれしい限りです。
時間の使い方を工夫し、集中を意識して
当時は「将棋は職人の世界。目指すなら早めに専念したほうがいい」という考え方が主流でした。それが今では東大生や医学部生が棋士になる。時代は変わったなと思います。
何か2つを両立するって、すごく難しい。けれど、一つのことに打ち込むことが、もう一つにプラスに働くことは必ずあります。中学受験生には、時間の使い方や集中を意識して、合理的に頑張ってほしい。受験は「大きなこと」ではあるけれど、後で振り返ると人生を左右するほどでもない。どんな結果になろうと、過程に重きを置いて「いい経験だったな」と思ってもらえたら。
親となった今、その視点で当時を振り返ると…子供の細かいところを見るよりは、大きな方向性を見てあげて、大きくそれたらちょっと修正するくらいでいいのではないでしょうか。両親からは勉強のことも将棋のことも細かく言われた記憶がありません。それがよかったのかもしれません。(田中万紀)
西尾明
にしお・あきら 日本将棋連盟所属の将棋棋士七段。昭和54年、横浜市生まれ。平成2年に小学5年生で奨励会に入会。浅野中学・高校を卒業し、東京工業大学(現・東京科学大学)生命理工学部に入学。中退後の15年に23歳でプロ棋士に。現在は日本将棋連盟の常務理事を務め、地元で「横浜西口こども将棋教室」を主宰している。