「先生、『三日坊主』はどういう意味ですか?」。大阪府守口市立さつき学園夜間学級の教室で昨年12月、プリント教材で漢字を勉強するネパール人の生徒が質問した。「先生」と呼ばれたのは谷緩名(かんな)さん(28)。一昨年春に同校を卒業し、昨年秋に通信制大学に入学した。残業もあるフルタイム勤務で物流倉庫の商品管理の仕事をしながら、教員免許取得を目指してリポート提出などの課題と格闘する日々だ。
母校では有償ボランティアとして週に1回、高校進学を希望する若い外国籍生徒たちの授業サポートに入る。「正しい日本語で正しい意味を伝えたいと思っていますが、ふだん意識することなく使っている言葉について聞かれると説明に困ります。『金物屋って何ですか』と聞かれたときは沈黙してしまいました。人に教えるのは本当に難しい」と苦笑する。
人とかかわる機会の少なかった生い立ちからか、人前に立つことへの苦手意識が残る。谷さんの様子を見ていた中田まり先生は「生徒に話しかけるときは視線を合わせて」と助言した。
昨年初めて挑戦したことがある。母校以外の場で、知らない人たちの前で、自分の体験を語ること。7月には夜間中学の増設を求める国会議員や教育関係者らが名古屋市で開催したシンポジウムでマイクを握り、11月には守口市の昼の中学生のスピーチコンテストにゲストとして登壇した。「自分の体験を話すことで、夜間中学のことを知ってもらえるなら」。その思いが、自身の課題とも向き合う原動力となった。
母子家庭で育った谷さんは、脳梗塞で倒れた母親の看病や家事などのため、小学4年の頃から学校に通えなくなった。母親が亡くなった平成26年春、18歳で夜間中学に入学。その手続きの際に、住民票が抹消され、学籍簿からも除籍されていたことを知った。小学校も卒業していなかった。「消えた子供」「ヤングケアラー」…。夜間中学は社会を映し出す鏡だ。
「履歴書の学歴欄に書けるものが一つでも増えて、ほっとしました」。入学から2カ月がたち、アルバイトを始めた頃の心境をそう振り返る。
夜間中学で驚いたのは、戦争や貧困、家庭の事情などで義務教育を受けられなかった人が、自分以外にも大勢いたこと。年齢も国籍も異なる人たちが机を並べ、正解や間違いにとらわれず、学びたいという強い気持ちが教室にあふれていた。子供時代に少し通った学校とはまったく違った。
「知らなかったことを知る喜びや自分の世界が増えていく、そのうれしさが学ぶということだと夜間中学で知りました」
いつしか、先生になりたいと思うようになった。「夜間中学の先生と生徒の距離は近くて、あったかい。先生たちは、こういう生き方もあるんだよ、と道を示してくれました」
令和5年3月、9年間学んだ夜間中学を卒業した。高校には進学せず、高卒認定試験(旧大検)に挑戦を続け、1年後に合格。大学は悩んだ末、通信教育課程に決めた。経済的負担が抑えられ、働きながら学べることや中学・高校の国語の教員免許を取得できることなどを勘案した。6年10月、京都にある大学に入学。学歴欄にまた一つ記入できることが増え、着実に学びを重ねていることを実感する。
ただ、仕事と学業を両立する生活は多忙を極め、通勤電車の中で課題のテキストを読み込み、週末にリポート作成に追われているという。
思わぬ壁は、谷さんが好きな「書く」ことにあった。子供の頃からの詩作や夜間中学の文集などは、自分の思いを前面に出せた。一方、大学のリポートは客観的な記述が求められ、これまで書いてきたものとは対極にあった。文体もなじみのある「です・ます」ではなく、「だ・である」で書く必要があり、今も戸惑いが続く。
「書くことの難しさを感じていて、苦戦中です。単位をちゃんと取れるか不安はありますが、先生になりたいという目標は変わらない」と谷さんはきっぱり言う。
「生徒に寄り添い、生徒の可能性を広げる手伝いができる先生になりたい」。母亡き後、生きるための「一本の命綱」だった夜間中学への恩返しともなるように-。(伐栗恵子)
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さまざまな事情で義務教育を十分に受けられなかった人たちが通う夜間中学。平成31年3月に連載「夜間中学はいま」をスタートして以来、数多くの夜間中学生の話に耳を傾けてきました。「あの生徒さんはいま、どうしていますか?」-。彼らのその後を気にかける読者からの声がときおり届きます。新シリーズでは、かつて取材した人を中心に、夜間中学で学んだ人たちの「それから」を追いかけます。
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