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日本海海戦の電文書面、真珠湾攻撃・山本五十六の焦燥…文献が伝える生々しい史実 深層の真相 防衛研リポート

産経ニュース 2025年1月29日 11時0分

先の大戦が敗戦という形で終結して今年で80年。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは19世紀ドイツの指導者、ビスマルクの格言だが、戦史から教訓をくみ取ることは、われわれに託された使命だろう。防衛省防衛研究所(防衛研)戦史研究センターの研究者らを通じて史料を読み解き、「深層の真相」を探るシリーズ。第1回は「教訓の宝庫」である戦史研究センター史料室に迫る。

東京・市ケ谷の防衛省。約25ヘクタールの広大な都心の敷地には、庁舎のほか、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使用された大講堂や大本営地下壕跡がある。防衛研は敷地の北側、加賀門近くにたたずむ。

史料室は、明治維新から第二次大戦までの旧日本軍の公文書など計16万7千冊(うち陸軍5万9千冊、海軍4万1千冊)を所蔵。防衛研の研究者だけでなく、広く門戸を開き、戦史研究などに寄与している。

「戦争には成功もあれば失敗もある。史料を分析・編纂(へんさん)し、戦訓や教訓を探る過程は、組織として必要なこと」。史料室長の菅野(かんの)直樹さん(52)が説明する。旧陸海軍でも戦史研究はなされ、今も各国の軍に研究機関があるという。

昭和20年の敗戦を受けて旧軍は解体、国内では29年に自衛隊が創設された。

自衛隊でも、日本という国家そのものを変えた大戦を検証する必要があった。戦史研究は30年に陸上自衛隊幹部学校に設置された戦史室で始まり、翌31年に防衛研修所(当時)の傘下に入った。

旧軍の公文書の多くは焼却や米軍の接収、旧厚生省復員局や個人での保管など散逸していた。

戦史室が史料を収集しながら編纂したのが、公刊戦史「戦史叢書(そうしょ)」だ。職員ら100人以上が旧軍人ら約1万3500人から聞き取りを実施し、41年に第1巻「マレー進攻作戦」を発刊。61年に最終の第104巻を刊行したが、準備段階から20年以上の歳月を費やした。

「旧軍の名誉を重んじ、踏み込むべきところに踏み込んでいない」との批判もあるが、菅野さんによるとこれほどの戦史書シリーズはほかになく、現在でも研究のほかドキュメンタリー番組の制作でも参考にされている。

55年から史料の大部分は一般公開され、寄贈で史料は今も増えている。「戦史編纂や史料公開ができたのは、戦後だったからこその事情もある」。菅野さんは「国際情勢が不安定な現代。過去の戦争に学ぶ部分は多いはず」と語る。

山本五十六の「最期」

史料室に所蔵される文献の数々は、生々しい戦史を今に伝える。

旧日本軍の公文書は敗戦時に多くがその手で焼却された。焼却を免れた文書など1万数千冊は米軍が押収。ワシントンで保管されたが、外交交渉の末、昭和33年に日本に返還された。

《敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 之ヲ撃滅セントス》

日露戦争の勝敗を決した日本海海戦当日の明治38年5月27日早朝、海軍連合艦隊から軍令部に宛てた電文書面もその一つだ。

作戦立案の参謀、秋山真之(さねゆき)が戦局を決定づけた重要事項を盛り込んだ名文《本日天気晴朗ナレドモ波高シ》は有名だが、書面のつづりは海軍省を経て東京帝国大(現・東京大)図書館で保管されていた際、米軍に接収されるという数奇な過程を踏んだ。

書面には、電文を受けた軍令部が陸軍に対し、付近の海域で船の運航を差し止めるよう連絡したとの鉛筆書きの記録も残り、当時の緊迫した状況が浮かぶ。

戦後70年近く後に寄贈された史料もある。昭和16年12月の日米開戦時に連合艦隊司令長官だった山本五十六が、友人の海軍高官に宛てた自筆の書簡。16年1月~18年1月の計9通で、平成25年4月、高官の親族から寄贈された。

このうち山本自ら立案した米ハワイ・真珠湾攻撃後の昭和17年1月2日付では、不安やいらだちなど率直な心情が読み取れる。

戦前、山本は米国視察で国力の差を知り日米協調を唱えたが、逆に開戦時の作戦立案の役割を担う。

書簡では真珠湾攻撃について《英米にすれば飼犬に一寸手をかまれた位に考え》とし、米軍が本格的な反攻に出てくる可能性を憂慮。特に17年春以降の日本軍の航空戦力を不安視し、山本が軍中枢に要請した結果、搭乗員を700~800人余分に養成することになったが、《まだまだこんな事にては到底安心出来ず せめて布哇(ハワイ)にて空母の三隻位もせしめ置かばと残念に存居候》と吐露した。

さらに、真珠湾攻撃に難色を示していた人々が、奇襲成功後には得意げで勝敗が決したかのような様子でいると指摘。《実は世間のからさわぎ以上 部内幹部の技倆識見等に対し寂莫を感せしめらるゝ次第にて候》とつづった。

山本は18年4月18日、暗号解読により待ち伏せていた米軍機に撃墜され、戦死する。

「山本元帥国葬関係綴」には、ブーゲンビル島(パプアニューギニア)の墜落現場図が収められている。遺体の状況も報告され、山本は左手で軍刀を握り、左胸に敵弾を受けていたが、他の遺体と比べて傷みが少ないことが記されている。

後世に残された「財産」

なぜ、先の大戦で日本は抜き差しならない事態に陥り、なお突き進んだのか。現代でもそうした問題に直面することはある。戦史を知ることも解決策の一つになるのではないか。

公刊戦史「戦史叢書」は、防衛研修所初代戦史室長の西浦進を中心に、昭和41年に発刊された。当時は旧軍関係者が多く生存。陸軍中枢で将来を嘱望された西浦をはじめ、携わった職員らも戦争経験者だった。

時代とともに証言者はいなくなるが、史料は残る。

日中戦争の発端となった12年の盧溝橋事件。「支那駐屯 歩兵第一連隊 盧溝橋附近戦闘詳報」は、当時の連隊長、牟田口廉也(むたぐち・れんや)が33年に防衛研修所に寄贈。インパール作戦を強行したとして知られるが、彼が寄贈しなければ現存しない史料の一つだという。

戦史研究センター史料室長の菅野直樹さんは「かつて徴兵は義務であり、旧軍は国民生活に大きくかかわっていた」と語り、旧軍は当時の国際情勢、日本社会を考える上でも欠かせない存在だったと指摘する。

戦史史料は後の世代の「財産」であることは間違いない。これからの取材を通じて、今に生きる教訓を探っていきたい。

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