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武家町に偉人を培った孝行心 原田二郎旧宅 三重県松阪市 <門井慶喜の史々周国>

産経ニュース 2024年7月24日 7時0分

松阪の街は見どころが多い。お城マニアなら松坂城跡がおもしろいし、偉人好きなら本居宣長や小津安二郎あたりの記念館が魅力的だろう。

食いしんぼうには何と言っても「和田金」「牛銀」など、松阪牛のすき焼きを食べさせる店。ついでながら私は「不二屋」の中華そばが好きで、お値段も庶民的だし、何と言っても和風だしに黄色い中華麺の組み合わせの妙ときたら。

よほどの工夫があるのだろう。とにかくそんな松阪の街ではあまり目立たない存在だけれど、同心町(どうしんちょう)もいい。松坂城跡から徒歩数分。

同心町とは、ここでは通りの名前をいう(行政地域としては殿町(とのまち)に属する)。一見すると普通の生活道路だけれども、左右に緑の生け垣がつづき、ときに大きな木造の屋敷があらわれるのは、往年の武家町の景色をよく想像させる。

実際、江戸時代にそこに住んだのは、七石二人扶持を給せられた町奉行組同心等というから決して上流階級ではないわけだが、それでもこの落ち着きである。建物や文化財などのモノを見るよりも、むしろ歴史の気化したものの匂いを吸い込みたい向きにお薦めする。隠れた名所である。

とはいえ、その同心町にも見学できる施設はある。たとえば原田二郎旧宅などは足休めを兼ねて恰好(かっこう)の場所だ。

侍屋敷の特徴をよく残しつつ、明治に入ってから二郎自身が増築した部分も整備して、いわば近世と近代のあいだの橋わたしをしている。いごこちのよさは格別だけれども、それはそれとして、この原田二郎という人の説明はむつかしい。

江戸時代の大阪の豪商・鴻池家が、明治以降、近代化に乗り遅れたのを挽回させた大番頭的存在。まずは金融界の重鎮である。生まれは嘉永二(一八四九)年だから、子供のころは、それこそ前髪姿で同心町の通りを走りまわって遊んだはずだが、この人の場合、ほかの何より大事なのは、むしろその子供のころに培われたと思われる孝行心である。大人になっても親への恩を忘れなかったばかりか、それを出世の原動力にしたふしがあるのだ。

その心ばえのよくわかるのが、たとえば手紙である。原田の死後に刊行された浩瀚(こうかん)な『原田二郎伝』全二巻の上巻冒頭には見開きで手紙の束の写真が掲げられているが、その数がおびただしいのだ。本人が両親あてに送ったものが三十五年間で千三百通あまり、これだけでも単なる筆まめを超えている上、それよりさらに目を引くことには、逆の方向、つまり両親にもらった手紙まで行李(こうり)に入れて保存してある。

特に或(あ)る一時期のものは封筒にしっかり入れてあって、墨(すみ)くろぐろと「父母上御親翰」と表書きされている。原田本人が書いたのだろう。まことに歴史家にとっては一大史料群にほかならないが、ひるがえって考えれば、人間はたぶん、こういう孝行心の延長線上において年上の人を尊敬するのだろう。

血縁があろうがなかろうが、恩を受けたら力をつくす。原田の場合、その対象となったのは、維新の元勲にして長州閥の領袖(りょうしゅう)である年上の井上馨だった。原田はこの井上に白羽の矢を立てられたことで鴻池に入り、その家計の整理にあたったのである。

つまりは出世のきっかけである。原田はよほど感謝したのだろう、井上が七十九歳で死んだあとも遺髪をつねに携えたというが、この逸話には功名心のくさみがない。なぜなら原田はそれ以前から亡き両親の写真を持ち歩いていたからで、このあたりに、私たちは、単なる我欲(がよく)と真の誠意とを分ける何かを見いだすことができる。原田はどうやら後者だったらしいのである。

原田はじつは、三十代のころ、東京で失敗している。

故郷へ帰り、この家で失意の日々をすごした。現在に残る二階建ての建物はそのとき増築したものと思われるが、私はその二階の書斎に座り、円窓の柔らかな光に包まれながら室内を見た。

この広すぎず狭すぎず、ちょうどいい体感に彼の雌伏は支えられた。そう思った。かつて七石二人扶持の同心が住んだその家には、きっと両親も住んでいたのだろう。原田の父は働き者で、家のなかでも絶えず何かをしていたというが、あるいはこれは松阪という街そのものの地味な美質かもしれない。

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