Infoseek 楽天

大阪・淀川 日本治水史の物語を一望する <門井慶喜の史々周国>

産経ニュース 2024年11月27日 7時0分

淀川の歴史は、古い。

「日本書紀」にも登場する。仁徳天皇十一年十月、淀川の水害を防ぐため、現在の大阪府寝屋川市あたりに茨田堤(まんだのつつみ)という堤防が築かれることになった。

途中、工事がむつかしかった。築いても築いても崩れてしまう。そこで天皇は神託を受け、武蔵の人コワクビと河内の人コロモノコのふたりを生贄(いけにえ)にしようとした。

いわゆる人柱である。コワクビは泣きながら水に入って死んだけれども、コロモノコはひょうたんを投げ入れて、「川の神よ。もし私の命がほしいなら、このひょうたんを沈めてみろ。沈んだら私は死んでみせよう。だが沈められぬなら、お前は偽物の神ということ。従うわけにはいかん」

ひょうたんは、川に浮いた。コロモノコは犠牲になることなく、堤防も無事に完成したのである、うんぬん。

この史実(?)から、私たちは多くのものを得ることができる。人間やっぱり機転は大事だとか、あるいはまた、古代では関東の人間はよほど馬鹿(ばか)にされていたのかとか。とにかく仁徳天皇の治世、ということは桓武天皇による平安京遷都のはるか以前にもうこの川ではこんな国家的なプロジェクトが実行されたのである。

とはいえ、このころは、おそらく堤防はぶつぎれだったろう。川すじが現在とは違って一本道ではなく、何本もの支流がだらだらと裳裾(もすそ)のように広がっていたからである。堤防は必要な場所だけ溢水(いっすい)を防ぐ、一種の霞堤(かすみづつみ)のごときものしか築き得なかった。

それが一千年以上もあとになり、戦国時代という土木技術の大発達期を経て、淀川は、ようやく豊臣氏により川すじが一本にまとめられた。

堤防もぶつぎれではなく線状のものになり、隙間がなくなった。いわゆる文禄堤である。これは単なる水害の抑止をこえて、特に物流面において効果がいちじるしかった。江戸時代に入ると京都(厳密にはその南郊の伏見)大坂間の船の行き来がしやすくなり、大量の貨物が送受されたのである。

例の茨田の地のごときは大坂に近く、畑が多いので、採れた野菜が次々と船に積まれて出荷された。近郊農業のはしりである。大坂の船の出入りというと、日本海と瀬戸内海を覆う全国規模の物流の大動脈、いわゆる西廻り航路を連想する向きも多いだろうが、しかしそれはあくまでも「天下の台所」、全国の商品に値段をつけるという市場機能を支えるものであって、基本的には、大坂で直接消費される荷を運び込むものではない。淀川は、大坂の市民にとっては重要なビタミンの補給路だったのである。

もっとも、江戸時代のこの川にも、大きな問題があった。大坂の街のなかを流れたということである。なるほどそれは船の荷物の上げ下ろしがしやすい利点をもたらしたが、その反面、水害の被害を大きくもした。

台風のときなど、人口稠密(ちゅうみつ)の地がそっくり泥の海と化すのである。これは江戸時代にはとうとう解決できなかったので、解決したのは、近代に入ってからである。

具体的には、但馬出身の土木技師・沖野忠雄がこれに当たった。

そもそも淀川というのは京都のほうから西流してきて、大阪市街の北東部、毛馬(けま)の地でいったん南に方向を変えてから、また西へ曲がり、市内を貫通して大阪湾へそそぐ。沖野はその毛馬から西へまっすぐ、もう一本の川を引くことで、市内へ流れ込む量を減らしたのだった。

すなわち放水路の新設である。この国家的な―またしても国家的な―大工事は明治二十九(一八九六)年に始められ、四十三(一九一〇)年に完成した。じつに十四年もかかったのである。この直線的な放水路は、当時は「新淀川」と呼ばれたが、現在の地図では「淀川」となって、すっかり本流たる地位を確立している。私たちは普段ほとんど意識しないけれども、大阪駅から北に向かう電車や地下鉄に乗ると、まず渡る大きな川、あれはこのときの完全に人工的な建造物なのである。

現在、淀川べりには、いろいろ探訪のよすががある。大阪府寝屋川市の茨田堤の碑。守口市の文禄堤の遺構。そうして毛馬ちかくの公園には沖野忠雄の銅像が立つ。

あの古代のひょうたんの人柱から近代的開削工事まで、その気になれば、一日のうちに日本治水史を通観することができる。

この記事の関連ニュース