15日早朝の三笠宮妃百合子さまの薨去を受けて、三笠宮家は悲しみに包まれた。三笠宮さまとのご結婚は18歳だった昭和16年。日米の開戦直前であったため、結婚式はつつましいものにならざるを得なかった。
三笠宮さまが軍人として任務に就いていたため、留守を守られていたが、終戦間近には、米軍の空襲によって宮邸が焼失。一時期、防空壕で生活するなど、苦労の中で結婚生活を営まれた。
百合子さまは、戦後の混乱がおさまってきたころから三笠宮さまが俳句を始めたのを契機に、「ゆかり」の俳号でご一緒に句会に参加し、32年には三笠宮さまとの共著で句集『初雪』を出版された。
戦後、歴史学者の道を歩んだ三笠宮さまのよき理解者として、中近東地域の史跡調査では映画やスライドを撮影し、三笠宮さまの講義の資料収集に内助の功を発揮された。
三笠宮さま「家内が一番大変」
「日本赤十字社」名誉副総裁のほか、各種団体の総裁や名誉総裁を務め、地方でのさまざまな行事に出席し、関係者の努力に対して励ましの言葉をかけられてきた。また、「民族衣裳(いしょう)文化普及協会」によると、名誉総裁就任の際、着付け文化の継承と普及を目指していた協会側に、染色技術の継承や功績のあった人らへの表彰を行うことをご提案。毎年行う表彰式には、百合子さまも臨席して関係者らと交流された。
三笠宮さまは、41年の秋に長女の甯子(やすこ)さん(近衛忠煇(ただてる)氏夫人)の結婚を前に、「やはり家内が一番大変です。私なんかはどうしていいかわかりませんので、ただ、アレヨアレヨとみているのみですが。結婚していってしまったら、寂しくなるでしょうね。少しそんな気持ちが出てきました」と述べ、甯子さんへの愛情とともに、百合子さまを頼りに思う気持ちをにじませていた。
結婚60周年を迎えた平成13年10月22日には、東京・丸の内でダイヤモンド婚式のパーティーをご夫妻で開かれた。
互いに感謝、支え合われ
その10年後、結婚70周年の23年10月22日に先立っては、ご夫妻それぞれが文書でご感想を発表し、お互いへの感謝をつづられた。こうしたご感想のご公表は、三笠宮さまが95歳、百合子さまが88歳だったこのときが初めてのことだった。
三笠宮さまは「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」「妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない」などとつづり、戦中・戦後の激動の時代をともに過ごし、支え合ってきた妻への思いを込めていた。
戦前、陸軍に在籍していた三笠宮さまが、教材のレコードを聴いて中国語を勉強する際には、百合子さまがレコードの操作をご担当。戦後になり、三笠宮さまが東大文学部で歴史学を学んでいたころには、公務で参加できなかった授業の分のノートを友人から借りると、百合子さまが深夜まで写されていたという。
三笠宮さまは「百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」と感想を記述。百合子さまも「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」と最上級の感謝をつづり、ご夫妻の強い絆を示されていた。
また、百合子さまの知人らによると、百合子さまは宮邸で若いころの三笠宮さまが乗馬をしている写真を「凛としているでしょう」とうれしそうに披露されることもあったという。三笠宮さまの薨去後も、外出が可能な間は月命日に、三笠宮さまが葬られている豊島岡(としまがおか)墓地(東京都文京区)を参拝されていた。