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戦乱の渦中にあった戦国の城 「川越城」(前編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ

産経ニュース 2024年9月7日 9時0分

「小江戸川越」と呼ばれ、観光地としても人気の高い埼玉・川越は、古くから水陸交通の要所だったため、歴史が深く、とくに中世においては、何度も戦いが繰り広げられた歴史ロマンあふれるとても魅力的な地域です。川越城は入間川・越辺川などの河川に囲まれた川越台地に築かれ、周辺は低湿地帯になっていたと考えられ、さらに、入間川の支流新河岸川が川越城をぐるりと取り巻くように流れていて、まさに天然の要害といえます。

嘉永元(1848)年に建てられた本丸御殿が現存していることもあり、江戸時代のイメージが強い川越城ですが、長禄元(1457)年、扇谷上杉氏の重臣太田道真、道灌父子らによって築かれたことに始まります。

享徳3(1454)年に古河公方足利成氏と関東管領山内上杉氏の抗争「享徳の乱」が起き、戦国時代の幕が開くと、武蔵国は戦乱の渦中に置かれました。古河公方は古河(茨城県古河市)を、関東管領は五十子(本庄市)をそれぞれ拠点として両者がにらみ合ったため、関東の諸勢力は利根川を挟んで二分されました。これにより、川越を含む関東東部は両勢力の争いの舞台になったのです。このような背景の中、対古河公方の最前線にあたる重要地川越に、上杉氏の庶流扇谷上杉氏が築き、本拠としたのがここ川越城なのです。

南関東が主たる勢力圏だった扇谷上杉氏は、川越城と南関東の連携を図るために江戸城も築城。江戸城には道灌を入れ、古河公方勢力に対しての防衛線を構築しました。

約30年続いた享徳の乱以降、関東の混乱はさらに深まり、太田道灌暗殺という大事件を経て、今度は長享2(1488)年に上杉氏の内部抗争「長享の乱」が起こります。山内上杉氏は鉢形城(寄居町)を拠点に、扇谷上杉氏は川越城を拠点に関東各地で激戦を繰り広げることになるのです。

明応3(1494)年には、高見原(小川町)で両者が激突。扇谷上杉方は、鉢形城近くの高見原まで攻め寄せ、山内上杉方を押していましたが、なんとこの出陣中に扇谷上杉氏当主定正が没してしまったのです。定正は赤浜(寄居町)付近で荒川を渡ろうとした際に、脳卒中などの病によって落馬しそのまま事切れたと伝わります。当主を失った扇谷上杉方の軍勢は大崩れとなり、撤退。川越城に敗走しました。

その後も長享の乱は継続し、明応6(1497)年、今度は山内上杉氏が川越城近くまで攻め寄せ、川越城攻略のために上戸陣(川越市)を築きました。これにより、川越はさらなる戦乱の渦中に置かれ、永正2(1505)年に和睦が成立するまで、川越城は両勢力の激戦の舞台になりました。観光客でにぎわう川越には、実はこのような激動の戦国時代があったのです。

和睦によりやっと長享の乱が終結したのもつかの間、今度は立て続けに山内上杉氏、扇谷上杉氏ともに当主が死去します。これらのタイミングの悪さと、長く続いた戦乱による疲弊で、両上杉氏とも勢力が減退。これによって、伊勢宗瑞(北条早雲)が台頭し、以降、宗瑞のあと、家督を継いだ氏綱を当主とする小田原北条氏との戦いが両上杉氏を待ち受けているのです。まさに川越城は、関東の勢力図を塗り替えた歴史の転換点となった城なのです。(中世においては「河越城」と記される場合が多いですが、今回は「川越城」で統一しています)

山内上杉氏が川越城を攻めるために築いた「上戸陣」は、川越城の西方約4キロの入間川を挟んだ対岸にあり、現在は「河越館跡」として、国指定史跡になっています。河越館跡は、桓武平氏の流れをくむ名門秩父平氏の一門河越氏の居館跡です。上戸陣は、応安元年(1368年)の政治闘争「武蔵平一揆の乱」で河越氏が没落するまで使われた居館跡地に築かれました。

■山城ガールむつみ

歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。

歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)

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