Infoseek 楽天

成田氏の分家、別府氏の城 「別府城」(前編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ

産経ニュース 2025年1月11日 11時0分

JR籠原駅の北東約2キロに位置する別府城(埼玉県熊谷市)は、「別府城跡」として県指定史跡になっています。別府城は、武蔵国を代表する国衆成田氏の分家別府氏の城です。別府氏は、平安時代末期、成田助高の次男成田次郎行隆が別府の地を領して、別府氏を名乗ったとされています。

諸説あるものの、成田氏は藤原氏を出自とすると伝わり、もとは成田郷(熊谷市周辺)の開発領主として下向し、土着したことにはじまると考えられています。別府城の南東約8キロの熊谷市上之には、成田氏館跡とよばれる居館跡があり、ここは15世紀後半以降に本拠を忍城(行田市)に移すまで、成田氏が400年にわたり本拠としていた居館跡だと伝わります。

熊谷市から行田市にかけて広がる広大な沖積平野は、肥(ひ)沃(よく)な土砂が堆積し、古代から耕作地として発展した豊かな土地だったため、律令制下から穀倉地帯として開発が進んだ場所であったといいます。このように古くから発展した地域を領した成田氏は、別府氏の他に奈良氏、玉井氏などの分家を輩出し、周辺に展開していきました。助高の3男高長が奈良氏、4男助実が玉井氏の祖になったと伝わっています。

別府氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、本家成田氏とともに武功をあげて、武蔵国内での地位を確立していったようです。別府氏は、源義仲追討の時には、源頼朝の命を受けて、源範頼に従ったと伝わり、また、源義経に従い、平家追討にも出陣。一の谷の合戦などでも功を上げたと伝わっています。南北朝時代には、足利尊氏に従って北朝方として活躍したといい、『太平記』にも別府氏の名が見えます。

15世紀中頃から16世紀頃に築城か

別府城は、堀と土塁で囲まれた方形居館の姿を現地に良好に残しています。別府城の郭内は、東別府神社と集会所、公園になっていて、地域の人たちの憩いの場になっています。別府城の築城時期や築城者などの詳細は不明ながら、今に残る城の構造から15世紀中頃から16世紀頃に築城されたと考えられています。この頃は、享徳3(1454)年から30年にわたって繰り広げられた、鎌倉(古河)公方足利氏と関東管領上杉氏の抗争「享徳の乱」が起きた時期にあたり、本県を中心に各地に戦乱が広がり、周辺地域にたくさんの城館が築かれました。そのような状況の中で、別府城も築かれたと思われます。なお、別府氏の本家にあたる成田氏も、この享徳の乱の最中に、本拠を成田氏館から忍城に移したと考えられています。

別府城の西方約500メートルには、「西別府館跡」と呼ばれる居館跡があります。今は石碑を残すのみですが、かつては別府城と同じように、しっかりとした堀と土塁が残っていたと伝わります。西別府館についても詳細は不明ながらも、伝承では、別府氏の分家の館跡だと伝わります。元久元(1204)年に、別府氏の祖である行隆の長男太郎能行(よしゆき)と、その弟次男二郎行助の間で相続争いが起きたといい、その際、兄の能行が別府郷の東側を、弟の行助が西側を領したといいます。東側を領した能行の系統が別府城を築き、西側を領した行助の系統が西別府館を居館としたと伝わります。

別府城周辺には、別府氏ゆかりの寺社が点在し、城下集落からも中世の面影を感じることができます。平安時代から脈々と続く、別府氏の歴史をしのぶことができます。

別府城の周辺は古代から地域の要所でした。別府城の西方、熊谷市と深谷市にまたがるように国指定史跡「幡羅(はら)官衙遺跡群」があります。この史跡は、7世紀後半から11世紀前半頃まで機能していた幡羅郡の郡家(役所)と考えられています。また、「別府」という地名も古くから、この地が発展していたことを示す名前といえます。由来については諸説あるものの、国府の支庁「別府」があったとも、もしくは、追加開墾状の「別官符」が出されたことによって開墾された地とも伝わり、いずれにしろ、古くから開発が進んでいた場所だと考えられます。

■山城ガールむつみ

歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。

歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)

この記事の関連ニュース