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鎌倉街道見張る要衝地 「四ツ山城」(前編) 埼玉のお城 出陣のススメ 山城ガールむつみ

産経ニュース 2024年7月5日 14時0分

戦国時代の幕開けとともに華々しく歴史の舞台に登場し、長尾景春の乱の鎮圧などで関東を代表する武将としてその名を残した太田道灌は、文明18(1486)年7月26日、糟屋館(神奈川県伊勢原市)で主君扇谷上杉定正に殺されました。伝えによると、最期の言葉は「当方滅亡」だったといい、この言葉は諸説あるものの、「(自分を殺しては)扇谷上杉氏は滅亡するぞ」という意味だと考えられています。道灌の遺骸は、糟屋館ほど近くの洞昌院に運ばれ、荼毘(だび)に付されたといいます。

道灌が謀殺されると、道灌嫡子の資康は甲斐国に逃れ、父を殺した扇谷上杉定正から離反して山内上杉顕定に助けを求めました。この資康の動きを受けて、親道灌派もこぞって扇谷上杉氏から離反し、山内上杉氏につきました。これによって、両上杉氏が激突した「長享の乱」が幕を開けました。享徳の乱が終わって息をついたのもつかの間、また新たな戦乱の渦が広がっていったのです。

資康と行動を共にした中には、武蔵千葉氏や相模最大の勢力であった三浦氏もいました。特に、三浦氏が山内上杉氏に従ったことがこの時期の混乱を表しているといえます。なぜなら、三浦氏の当主道含(高救)は扇谷上杉定正の実兄にあたり、三浦家に養子に入った人物です。道灌と懇意にしていた道含は、道灌を殺した実弟定正が許せず、実家扇谷上杉家から離反したのです。このことからもいかに関東が混乱の渦中にあったかがわかります。

長享2(1488)年2月、両上杉氏は実蒔原(神奈川県伊勢原市)で激突。これを皮切りに両者は全面抗争へと突入。この後、戦線は本県へ移ります。特に、比企地方が主戦場になりました。比企地方が大きな戦いの舞台になった理由としては、山内上杉氏の本拠鉢形城と扇谷上杉氏の武蔵国における拠点河越城が対(たい)峙(じ)する中間にあたる境目の場所だったからだと考えられています。まさに本県は、関東を揺るがした戦いの中心地だったのです。

6月には菅谷館(嵐山町)のほど近くで、死者700人とも伝わる大規模合戦「須賀谷原合戦」が起き、続く11月には高見原(小川町)で「高見原合戦」が繰り広げられました。この戦いは扇谷上杉氏の勝利に終わり、山内上杉軍は鉢形城に敗走しました。

高見原は鎌倉街道上道沿いに位置し、さらに鎌倉街道と並行するように市野川が流れる水陸交通の要衝地のため、たびたび合戦の舞台になっています。この要衝地「高見原」を臨む絶好の位置に築かれたのが「四ツ山城(別名高見城)」です。

四ツ山城は、現在四津山神社が鎮座する標高約200メートル、比高約100メートルの山陵(さんりょう)に築かれました。城山である四津山は、山頂部が四つあることからその名が付いたといわれています。四ツ山城の詳細は不明ですが、古河公方の家臣増田四郎重富の築城とも伝わっています。

四ツ山城周辺は、享徳の乱以降は諸勢力に挟まれてかなり緊迫した状況下に置かれていたと想像され、長尾景春の乱の際には太田道灌が在陣したとも伝わります。いずれにしろ、四ツ山城は街道を見張り、押さえる役目をしていたと思われ、比企地方が相次ぐ戦乱の舞台になった時代には、地域の拠点として重要な役目を担っていたことでしょう。山頂から眼下に広がる景色を眺めると、高見原に布陣した軍勢や鎌倉街道を行き交う軍列が目の前にまざまざと浮かぶようです。

四ツ山城の南東1・5キロほどのところに、鎌倉街道上道跡があります。調査によって、何度か改修されながら使われ、側溝も造られていたことがわかっています。「鎌倉街道」という言葉は江戸時代に付けられたものですが、中世戦国時代にたくさんの人がここを行き交い、鎌倉に攻め入る新田義貞の軍勢や、高見原の戦いの際にもこの道を大軍が行き来したと想像すると鳥肌が立ちます!

四ツ山城とあわせてぜひ行ってみてくださいね。

■山城ガールむつみ

歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。

歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)

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