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合戦地「高見原」に築かれた城 「四ツ山城」(後編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ

産経ニュース 2024年7月19日 13時58分

文明18(1486)年7月26日、糟屋館(神奈川県伊勢原市)で、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が主君扇谷上杉定正に謀殺されるという大事件が起きました。これをきっかけに、扇谷上杉氏と山内上杉氏の全面抗争「長享の乱」が幕を開け、本県でもあちこちで戦いが起きました。

長享2(1488)年には、鎌倉街道上道の要所である須賀谷原と高見原で大規模な合戦が繰り広げられました。この2つの戦いでは、扇谷上杉方が勝利し、山内上杉方は鉢形城に撤退、以降、扇谷上杉氏の拠点河越城と山内上杉氏の拠点鉢形城の間にあたる比企地方は、激戦地となりました。比企地方に築かれた城の多さと、各城に残る戦国時代の遺構が、この地域の激動の歴史を物語っています。

たびたび両上杉軍が激突した高見原を望む絶好の位置に築かれた四ツ山城(別名高見城)は、詳細は不明なものの、長享の乱においては扇谷上杉氏が鉢形城攻めの陣所にしたとも考えられています。

ちなみに文明12(1480)年に、太田道灌が鉢形城に籠もった景春を攻めるため、四ツ山城に布陣したとも伝わります。また、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、豊臣方の大軍が四ツ山城に攻め寄せたといい、鉢形城の守りとして四ツ山城にいた城兵は戦わずに鉢形城へ逃げたと伝わります。このように、四ツ山城はたびたび戦いの舞台になる地域の重要な城なのです。

四ツ山城は周囲からひときわ高くそそり立ち、遠くからでもとても目立ちます。山頂からは直下を通る鎌倉街道上道はもちろんのこと、周辺の城が一望できるパノラマが眼下に広がります。この素晴らしい景色から、四ツ山城の存在意義を感じることができます。

また、四ツ山城の東南約2キロの鎌倉街道上道沿いに「奈良梨」という宿があります。この宿は、鎌倉時代末期にはすでに形成されていたことが分かっていて、戦国時代には宿駅として繁栄していました。現在の八和田神社を中心に、宿を管理する何らかの施設があったと考えられていて、「奈良梨陣屋」として小川町の指定史跡になっています。さらに、高見と菅谷に伝馬が継立されていたことが天正10年(1582年)の『北条氏伝馬掟』から分かっています。このように四ツ山城周辺は、いつの時代も要衝地であり、四ツ山城は重要な役目を担っていたと考えられます。

四ツ山城は、おもに本郭、二の郭、三の郭で構成されていて、各郭の行き来を遮断するために、尾根を掘り切る「堀切」が施され、さらに斜面に対して縦に掘られた「竪堀(たてぼり)」も多用されています。本郭で発掘調査が行われたものの、残念ながら城の年代を特定できる遺物は発見されませんでした。しかし、今に残る当時の城の姿が、関東の動乱期において、重要な役目を担った四ツ山城の当時の姿を想像させてくれます。

長享2(1488)年の高見原合戦から6年後の明応3(1494)年7月、扇谷上杉氏は山内上杉氏の鉢形城を攻めるため、再度高見原に布陣。しかし、ここでまた大きな出来事が起きます。なんと、扇谷上杉氏当主上杉定正が死去したのです。一説には荒川を渡る際に落馬したとも伝わります。このため、扇谷上杉軍は崩壊し、河越城に敗走。この定正の死によって、政治的情勢がまた大きく変化し、新たな展開へと進んでいくのです。

四ツ山城は、地元の保存会が整備活動を行っているので快適に見学することができます。四津山神社の鳥居をくぐり、階段を上って本郭を目指してください!四ツ山城は西側から三の郭、二の郭、一番東側に本郭が配置されています。本郭が東側にあることから、西側からの敵を想定していると思われる造りになっています。鉢形城と対(たい)峙(じ)するように位置し、当時の戦いの臨場感を存分に感じられる城です。

■山城ガールむつみ

歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。

歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)

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