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住宅街に残る戦国の城 「中城」(後編) 山城ガールむつみの埼玉のお城出陣のススメ

産経ニュース 2024年8月24日 11時0分

中城は、東武東上線小川町駅から徒歩15分ほどの住宅街に、かつての姿を良好にとどめています。住宅街にぽっかりと姿を残す中城は、まるで戦国時代のタイムカプセルのようです。中城の城主は、土地の伝承によると、鎌倉時代には猿尾(ましお)太郎種直、鎌倉幕府滅亡後の建武年間(1334~1336)には斎藤六郎左衛門尉茂範と伝わります。

猿尾氏の詳細は不明ですが、中城に隣接して「増尾」という地名が残っています。漢字は違いますが、この住所はかつて猿尾氏がこの地を領していたことを想起させます。また、猿尾氏には面白い伝承が残っています。鎌倉幕府滅亡時、猿尾氏は鎌倉幕府最後の将軍守邦親王をこの地に匿い、助けたというのです。助けられた守邦親王はこの地に住み、八幡社を建てたといい、親王が没した際は、猿尾氏が中城近くの大梅寺に手厚く葬り、弔ったと伝わります。守邦親王が鎌倉から逃げてきたという伝承は、この地が鎌倉とつながる要所であったことを想像させてくれます。

また、建武年間の城主として伝わる斎藤氏に関しても詳細は不明ですが、16世紀後半に鉢形城配下の北条氏家臣に斎藤氏の名が見えます。もしかしたら、この中城に伝わる斎藤氏となんらかのつながりがあるのかもしれません。

このように鎌倉時代から建武年間の伝承が残る中城ですが、今に見える城の姿は戦国時代のものです。発掘調査からも、15世紀後半の築城と考えられていて、扇谷上杉氏家臣の

上田氏に関連する城だと考えられています。現地には二重土塁、横堀、横矢掛かり、虎口などの遺構が良好に残っていて、戦国時代を存分に体感できます。主郭はテニスコートになっていますが、かつての広さを十分に感じることができます。主郭南西には大権現堂が建っていますが、ここはかつての櫓台と思われ、当時は櫓が建っていたと考えられます。

このように、伝承や遺構が楽しめる中城ですが、なんと言ってもこの城の歴史ロマンを物語るのは太田道灌来訪ではないでしょうか。『太田道灌状』の文明6(1474)年のことと考えられている記事には、扇谷上杉氏家臣の上田上野介が在郷していた「小河」で道灌が一泊したことが書かれています。この「小河」が現在の小川町を指し、道灌を泊めた上田上野介の居城こそが中城だと考えられているのです。戦乱が広がる関東において、東奔西走して活躍した道灌。その渦中にあった道灌が来訪した可能性が高い中城に立つと、興奮を覚えずにはいられません。

上田氏は小田原北条氏が北武蔵に勢力を広げてくると、北条氏に属しました。北条氏が北関東の拠点とした鉢形城の支城として、中城は重要な役目を担ったと思われます。また、上田氏は松山城(吉見町)から、菩提(ぼだい)寺浄蓮寺(東秩父村)のある安戸にわたり領地を展開していたと考えられていて、その領域の真ん中に位置する中城は、上田氏にとって重要だったことでしょう。中城は軍事的な城郭というよりも、城館のような形をしているので、もしかしたら、地域の中心の政治施設だったのかもしれません。いずれにしろ、上田氏の主要城郭である腰越城(小川町)や松山城などと連携していたと考えられ、中城から周辺の山々に築かれた城を眺め、当時の様子を想像して思いをはせるのも楽しいです。

また、中城の西方約800メートルには守邦親王が創建したと伝わる八幡神社や、親王を弔ったと伝わる大梅寺があります。さまざまな歴史に彩られた中城は、住宅地に良好にその姿を残す

貴重な城といえます。

中城には、日本の和歌の歴史に多大な影響を及ぼした鎌倉時代の僧仙覚律師の顕彰碑が建っています。仙覚は13歳から万葉集の研究をはじめ、さらに鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の命を受け、読み方のわからなくなっていた152首を読めるようにしました。その後、万葉集の研究において重要な書籍となる『万葉集註釈』を比企郡北方麻師宇郷で完成させました。この「麻師宇郷」が中城に隣接する「増尾」と考えられていて、中城周辺地域が鎌

倉と結びつきが強く、文化豊かな地であったことを想像させてくれます。

■山城ガールむつみ

歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。

歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)

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