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対馬から船で結ぶ韓国への旅 交流の足跡をたどり、宗氏奮闘の歴史を学ぶ 島を歩く 日本を見る

産経ニュース 2024年7月19日 8時0分

国境の島である対馬(つしま)島(長崎県対馬市)から、韓国・釜山を訪れた。対馬北部の比田勝(ひたかつ)港から約50キロ先の釜山まで高速船が運航している。日本の離島から唯一、国境を越える定期船航路で、古来、多くの人や文物が往来した海の道でもある。産経新聞社主催のツアーで、旅の目的は朝鮮との交流の足跡を辿(たど)るというものだった。

対馬と朝鮮はかねて貿易を行い、よしみを通じる間柄にあった。しかし、豊臣秀吉が文禄元(1592)年に始めた朝鮮出兵で親交は断絶する。

江戸時代になると、徳川家康は朝鮮との国交の回復を図る。交渉にあたったのが初代対馬藩主、宗義智(そう・よしとし)だった。義智は粉骨砕身の努力と粘り強い外交を続け、朝鮮の重い扉をこじ開けることに成功した。

以降約200年にわたり朝鮮通信使が12回来日。争いのない平和な時代の象徴となった。朝鮮通信使に関する記録は、2017年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された。

韓国では、秀吉による朝鮮出兵を「壬辰倭乱」と呼び、日本軍が朝鮮半島の南海岸各地に築いた日本式の城を「倭城」と呼ぶ。釜山近郊には、加藤清正や小西行長、毛利輝元らが拠点とした倭城跡が残る。

中でも加藤清正の西生浦倭城(蔚山市)は、海抜133メートルの山の頂に築かれ、石積みの城壁が見事に保存されていた。天守閣は、日本軍が撤退する際に壊されている。現地の旅行添乗員の説明によれば、「城に使われた約20万個の石は出所が不明で、日本から運ばれてきた可能性もある。築城には10万人もの日本人が関わったと伝わる。壬辰倭乱の直後から約300年間は、朝鮮水軍が倭城跡を使用していた」という。今では桜の季節になると、地元の人らが花見をしに来るスポットなのだそう。

釜山タワーの建つ龍頭山公園を中心に広がる約10万坪の土地には、かつて草梁倭館があった。倭館は、日本と朝鮮が貿易や外交を行う日本人居住地で、江戸時代には対馬藩からのおよそ500人が居住していた。釜山の街中には、倭館にまつわる場所に案内板が設置され、「倭館は日本文化と朝鮮文化が交流する空間であった」「倭館は現在の国際港湾都市釜山を作りあげるのに大きな役割を果たした」などと記されていた。

朝鮮通信使が来日していた時代、対馬藩に仕えた儒学者の雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)は、「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」ことを朝鮮外交の方針とした。日本の窓口であった対馬の信条といえる。歴史には、計り知れない背景や先人の思いがあり、今の我々につながっていることを改めて学ぶ旅となった。

アクセス

対馬島の比田勝港国際ターミナルと韓国・釜山港国際旅客ターミナルを結ぶ高速船が運航。

小林希

こばやし・のぞみ 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は150島を巡った。

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