仲山城は、秩父鉄道樋口駅の北東約1・5キロ、比高120メートルほどの山上に築かれました。城山南方には荒川が流れていることから、水上交通の要所であったことが見て取れます。
仲山城の詳細は不明なものの、「新編武蔵風土記稿」「ながとろ風土記」や、土地の伝承などによると、北面の武士であった大和国出身の武士阿仁和基保が神託により東国に移り住み、新田義貞に仕え、正和元(1312)年に仲山城を築いたと伝わります。基保の死後、嫡男直家が跡を継ぎ、2代目仲山城主となりましたが、延文2(1357)年に秋山城主秋山継照と争いを起こし、さらに侍女をめぐる色恋沙汰のもつれから、仲山城で合戦が起きたと伝わります。継照と、その叔父の上州平井城の平井重勝に攻められ、直家は荒川の樋口川原で討死し、仲山城も落ちたと伝わっています。
これらの伝承の真偽のほどはわかりませんが、仲山城の戦いがあったとされる延文2(1357)年というのは、南北朝時代まっただ中であり、各地で諸勢力が戦いを繰り広げていた時期にあたります。そのため、仲山城に残る戦いの伝承も、南北朝時代の争乱に関わる可能性が高いと考えられます。このような伝承から土地に眠る歴史を思い描くのは、歴史巡り、城巡りの醍(だい)醐(ご)味(み)であり、また地域ごとの価値や魅力を再確認する上で、とても大事な視点だといえます。
実は、この伝承通りに、仲山城で実際に戦いがあったことを今に伝えてくれる遺品があるのです。それは、「野上下郷石塔婆」と呼ばれる国指定史跡になっている板碑(いたび)です。板碑とは、板石卒塔婆とも呼ばれる石製の供養塔です。生前供養、追善供養などのために造立されます。この「野上下郷石塔婆」と呼ばれる板碑は、仲山城の南方、荒川に面するように立っていて、高さ5メートル超、日本一の高さを誇ります。上部に宝珠3点を配し、その下には釈迦の梵字が薬研彫りで蓮台の上に大きく刻まれています。中央には「応安二(1369)年己酉十月日敬白」の銘があり、この年は仲山城の戦いで討ち死にしたとされる阿仁和直家の十三回忌の年にあたります。
さらに板碑には、僧侶道観、行阿、比丘尼妙円、正家、正吉ほか35人によって造立されたと刻まれています。妙円は直家の妻芳野御前、正家と正吉はその子だと伝わり、これらの銘によってこの板碑は、仲山城の戦いで討ち死にした城主阿仁和直家の十三回忌の法要の際に、妻をはじめとした一族が造立したものと考えられています。
仲山城の麓は、荒川に向かって口を開いた谷になっていて、集落を築くに適していることが見て取れます。城下には、直家が勧請したと伝わる諏訪神社や、琴平神社があり、この周辺には一族の館などがあったのだろうかと、想像をめぐらせることができる素晴らしい景観が広がっています。天正年間には、鉢形城主北条氏邦がこの諏訪神社を崇拝していたと伝わり、拝殿や神楽殿を造営し、地域の総鎮守に定めたといいます。
また、仲山城は今に残る遺構から、戦国時代においても使用されていたという指摘もあり、これらのことから仲山城周辺が戦国時代にも地域の重要地だったことが推察できます。城下に残る経塚、御殿池、馬廻、樋ノ口などの地名から往時をしのび、歴史を楽しむこともできます。
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土地に残る伝承というのはとても面白いです。たかが伝承ということはなく、伝承には何かしらの真実が含まれていると思われます。侍女に横恋慕した色恋沙汰のもつれによって起きたと伝わる仲山城の戦いも、原因はさておき、仲山城で南朝と北朝の戦いが起きたという真実を含んでいるのではないでしょうか。野上下郷石塔婆に刻まれた「応安」という元号は、北朝が使っていた元号のため、十三回忌の法要をした段階では阿仁和直家の妻をはじめとした一族は北朝方であったことがわかります。また、仲山城を攻めた秋山継照について詳細は不明ですが、仲山城の北方に児玉郡秋山という地名があり、さらに、継照と一緒に攻め寄せた叔父平井重勝は平井城(現在の群馬県藤岡市)の城主と伝わることから、仲山城とそれらの地域には、街道などを介したつながりがあったことも想像できます。このように各地に残る伝承は、地域の歴史をひもとく鍵になるのです。
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■山城ガールむつみ
歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。
歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)