東武東上線森林公園駅の北方約3キロの丘陵上に築かれた山田城は、現在、国営武蔵丘陵森林公園(滑川町)の一画に、その姿をとどめています。山田城が築かれた丘陵上には、鎌倉街道と伝わる道が通っていて、この地が古くからの交通の要所であったことがわかります。また、山田城の東と西には谷が入り込み、周囲には湿地が広がっていたと思われるため、要害性の高さも見て取れ、城を築くのに適した場所であったことがわかります。
ちなみに、鎌倉街道は、主要な道筋である「上道」「中道」「下道」以外にもたくさんの枝道があったと考えられています。それらの枝道も、古くからの道筋として、各地域で「鎌倉街道」と呼ばれているため、今でもあちこちに、「鎌倉街道」と呼ばれる道が存在します。森林公園内に伝わる鎌倉街道も、このような地域に残る枝道だと思われます。いずれにしろ、古くからの街道沿い、交通の要所に山田城は築かれたのです。
街道押さえる城を実感
山田城は長径約130メートル、短径約100メートルの郭をぐるりと土塁と空堀で取り囲む、いたってシンプルな造りをしています。現地には、土塁と空堀、さらに出入り口である虎口(こぐち)の遺構もしっかりと残っています。北東の虎口は、伝鎌倉街道と接するように配置されていることから、山田城が街道を押さえる城であったことが実感でき、行き交う軍勢の足音が聞こえてきそうです。
また、郭の内部には、部分的に土塁と空堀が残っています。このことから、この郭が複数の区画に仕切られていたことがわかります。形状から推察するに、おそらく4つの郭で構成されていたと思われます。ただし、郭内の堀は中途半端な状態で造成が終わっていて、さらに郭の平坦(へいたん)面はしっかり水平に造成されておらず、傾斜しています。そのため、未完成の城、もしくは陣城のように一時的な利用だった可能性も指摘されています。このような状況で残る城は珍しいため、その点でも貴重な城といえ、来歴不明の謎の城というのも、山田城の魅力のひとつです。
山田城の築城などの詳細は不明なものの、その形態から戦国時代の城だと考えられます。土地の伝承では贄田摂津守、小高大和守父子らが城主だったと伝わっています。贄田氏、小高氏はともに成田氏の家臣だったとされ、贄田氏は山田城の築かれた「山田」、小高氏は山田の西側に隣接する「福田」の領主だったとされています。小高氏は、「福田字馬場」に館があったという伝承が土地に残っています。
また、福田にある古(こ)刹(さつ)成安寺の馬頭観音堂の裏手には、建長3(1251)年の銘がある板碑が残ります。この板碑は、滑川町最古のものであることからも、福田が古くから歴史のある地域だということがわかります。
さらに、福田には小高氏の後裔(こうえい)が江戸時代に立てた「番場七観音碑」という碑があります。この碑には「南一揆二十三騎」という言葉が見え、小高氏もその「南一揆二十三騎」の将だったとされています。「南一揆二十三騎」の詳細は不明なものの、南一揆という同盟関係で結ばれた23の将がいたことがわかります。「一揆」とは、同じ目的のもとに結ばれた組織のことを指します。おそらく小高氏だけでなく、贄田氏も、この「南一揆二十三騎」の将だったとされ、小高氏や贄田氏をはじめとする成田氏の家臣団の存在を想起することができます。山田城は詳細不明ながらも、土地に残る伝承をひもときながら、想像を膨らませて考えをめぐらせ、歴史を楽しむことができる城です。
◇
森林公園南口ゲートをくぐると、突然、目の前に山田城が現れ、戦国時代にタイムスリップしたような感覚を味わうことができます。森林公園はその規模304ヘクタールという広大な公園で、季節ごとの景色を楽しむことができます。山田城のエリアについても、一年を通して整備されているため、どの季節でも見学がしやすいです。また、山田城には森林公園スタッフや地元の学生により、手作りのすてきな案内板や、標柱などが自然に溶け込むように設置されているので、それらを探すのも楽しいです。
※山田城を見学する際は、森林公園の入園料がかかります。営業時間などの利用案内につきましては、森林公園のサイトをご確認ください。
◇
■山城ガールむつみ
歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。
歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)