Infoseek 楽天

昭和28年生まれの私 サントリーHD副会長、鳥井信吾さん「佐治敬三らと囲んだ正月」 プレイバック「昭和100年」

産経ニュース 2025年2月2日 8時50分

「商い」にかけて「飽きない」

トリス、レッド、ホワイト、角、オールド、リザーブ…。サントリーウイスキーの発展は戦後の高度経済成長とともにありました。

私が子供時代を過ごした昭和30年代は米国的な食や文化などが日本にどっと入ってきた時期で、それは同時に日本的なものが失われていく過程でもあったと思います。

西洋文化へのあこがれが、日本でウイスキーがよく飲まれるようになったことにもつながったのではないでしょうか。

10歳になるくらいまでは毎週日曜日、サントリー創業者の祖父、鳥井信治郎の兵庫県宝塚市の自宅で、家族で過ごしていました。私の両親の家族や、伯父でサントリー2代目社長の佐治敬三、父の長兄・鳥井吉太郎の家族も一緒でした。

特に記憶に残っているのは正月の三が日で、信治郎を中心に家族が座り、おせち料理の膳を囲む日本の典型的な正月でした。元旦は白みその雑煮、2日はすまし汁、3日は白みそ雑煮を食べていました。大阪の商家では雑煮の順番は決まっており、「商い」にかけて正月の味に「飽きない」工夫ともいわれています。

正月の午後、サントリーの会社の人たちが入れ代わり立ち代わりで200人くらい来ていました。従業員が400、500人しかいない時代にです。

太巻きや天ぷら、ミカンを食べながら車座の宴会が開かれ、部屋にウイスキーやたばこのにおいが立ち込めていました。混然一体とした雰囲気で、皆、とても楽しそうでした。子供心ながら信治郎の面倒見の良さを感じたものです。

若い時は「熟成せぬウイスキー」

子供のころは将来の夢をはっきりと持ったことがなく、自身を「熟成しないウイスキー」のように、何者にもなることができていないと感じてきました。

ただ、甲南高校(兵庫県芦屋市)へ通っていたときには、私と違うタイプで刺激を受けた同級生がいました。当時は不良にも映りましたが、彼は授業に出ないくらいで、成績も悪くありません。先生にただ逆らうのではなく、世の中をよくみて、的確に批判していましたね。

ちょうど高度経済成長期でしたが、当時の大イベントは1970年大阪万博です。ソ連館で初めて食べたピロシキやボルシチはとてもおいしかった。米国館の「月の石」に、スイス館の金属のクリスマスツリーもすごかった。

当時は、みんなが成長や夢を信じ、より良い未来が来ると考えていました。戦争もなく経済は発展し、発展途上国といわれた国もいずれ経済発展するのだろうと思われていた。

あれから半世紀がたち、世界は戦争やテロ、大規模な自然災害、新型コロナウイルスを経験しました。残念ながら進歩することが幸せをもたらす、という世の中にはなっていません。

今年は2025年大阪・関西万博が開かれます。このような時代だからこそ「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマは意義があるはずです。参加する約160カ国・地域とともに、世界が新しい一歩を踏み出す機会になることを願っています。(聞き手 井上浩平)

この記事の関連ニュース