上皇さまの手術を執刀
どちらかというと、自分は平成の人間だと思っています。平成という時代に、自分の好きなことをさせてもらった。医師として経験を重ね、平成の象徴であられた上皇さまの手術も執刀させていただきました。
昭和はいわば、その準備期間にあたる「麦踏み」の時期でした。すぐには手の届かない目標でも「必ず到達する」「絶対にその景色を見てやる」という心の強さは、昭和という時代に育まれたのかもしれません。
小学校3年生の時、カラーテレビのある同級生の家で、東京五輪の開会式を見ました。きれいな色がついた画面なんて初めてでしたから、ものすごく感動したのを覚えています。明日への期待というか明るさというか、当時の空気感の残る上野駅は、今も一番好きな場所です。
同時に、昭和30年代はまだ、戦争の名残もありました。母親と銀座三越に行った帰りに傷痍(しょうい)軍人を見て、なんでこういう人たちがいるのだろう、と子供心に思った記憶があります。戦争体験を美化したような映画もたくさんありました。「大魔神」など特撮ものもはやりましたが、勧善懲悪のお決まりのストーリーは、善悪が混在した時代のイデオロギー教育でもあったのだと思います。
私は小、中と成績は良い方だったのですが、高校では世の中の誘惑に負けてしまいました。授業をサボってマージャン、家ではラジオの深夜放送に熱中し、土居まさるの「セイ!ヤング」などをよく聞いていました。父の心臓病が悪化して医学部を志望していましたが、大学受験には3度失敗しました。
浪人中のパチンコ経験が生んだ粘り
パチンコは浪人中の生活費を稼ぐほどハマりましたが、その経験が外科医としての手術の粘りにもつながっています。
スランプで出なくなっても、決して諦めない。手術だって思い通りにいかないこともありますが、「もうできない」と思ったら終わり。先に進めなくなっても手を止めずに、自分の引き出しの中から一番確率の高いものを当てはめていくんです。最後は勝つ。パチンコで刷り込まれたその感覚は、浪人時代の一番の収穫かもしれません。
リスペクトされる日本人でありたい
もうひとつ、昭和という時代のキーワードになるのが「水」です。
昭和40年代に医学部を卒業した一回り上の先輩たちの中には、米国に留学した人もいました。彼らが向こうで驚いたことの一つが、すぐにお湯の出る蛇口があるということ。こんな国と戦争して、勝てるわけがないと思ったそうです。日本では上下水道の普及もまだ完全ではなく、後の研究で判明する簡易な井戸水中のピロリ菌によって、多くの人が胃がんで人生を途絶させられました。
私は昭和のネガティブな体験を水質不良な新興国、発展途上国にさせてはいけないと思っています。中国やベトナム、インドなど海外でも医療活動に取り組んできた背景には、リスペクトされる日本人でありたいという思いがあります。
令和を生きる今の若い世代にも、アジアという広いフィールドで物事を考えてほしいと思います。失敗や負けを恐れず、果敢に挑戦して可能性を広げていってもらいたいのです。(聞き手 緒方優子)