頻々たる全国的列車妨害に、誰しも心配したのは、大きな事件を起さねばよいが、ということでもあった。そこへ今度の三鷹事件である。古い用語でいえば、「突如」ではあるが、幾分「果然」でもあった。
▼真相は、下山事件と同じくまだ不明であるけれども、パンタグラフを下げ、ブレーキをかけ、スイッチを切っておいた入庫車(運転士の言明)が、猛スピードで動き出すことはない。金庫がひとりで開かないと同様だ。石炭の自然発火があっても、電車の自然発車はあり得ない。
▼国有というからには、国の有、つまり主権在民の国民のものであるはずだ。ところが国鉄というと、何やら国民から遊離した別個の存在のような観を呈している。これが国鉄の威力だなどと誤解してはいけない。往年の軍、ことに関東軍は独立勢力のような顔をしていて、ついに自からのみならず国をも今日あらしめた。それとこれとは違うし、また違わねばならないが、嘗つての青年将校のようにヤタラに強がる一派がハバをきかす形は相似的である。そこでテロ辞せずという声も不幸にして正論に扱われることもある。このような分子は大てい少数なのだが、「軟論を主張する勇者」が少なく、あっても押され勝ちになる。穏健派が反動の名を附せられるのを嫌って沈黙する場合もあろう。
▼だが、かりそめにも国有鉄道が国民の怨府になるような変態は忍びがたい。現に「お宅は駅が遠くて結構ですね」といったような皮肉か何かわからぬ会話さえ聞かれている。主張すべきはあくまで主張すべし、テロは卑きょうである。とにかく今度の両事件を以て最終の悪事故としたいものだ。
(昭和24年7月17日)
※当時、産経抄は「時事小観」と呼ばれていました。