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昭和49年生まれの私 通天閣観光社長、高井隆光さん「新世界は今も昭和感が満載」 プレイバック「昭和100年」

産経ニュース 2024年12月15日 8時50分

女の子同士で遊びに行ったらアカン街

通天閣(大阪市浪速区)が立つ下町「新世界」で生まれ育ちました。子供のころは周辺の商店街や公園で野球やバドミントンをしたり遊具で遊んだり。新世界が遊び場でした。

当時の新世界は成人向けの映画館、宿泊施設、パチンコ店、マージャン店のほか、商店街「ジャンジャン横丁」には安価な飲食店が軒を並べ、隣接するあいりん地区(同市西成区)から訪れる日雇い労働者であふれていました。本当にディープな下町です。そのためか「女の子同士で遊びに行ったらアカン」といわれ「汚い」などのイメージも持たれていました。

でも、僕にとっては楽しい場所でした。昭和的なレトロ感というか、そういった猥雑(わいざつ)さも含めて街の活気につながっていた気がするからです。住民が強い団結意識をもっていたことも特徴です。幼少期には近所のおっちゃん、おばちゃんによく声をかけられました。地域の密接な関係が保たれていました。

明治時代に建設された通天閣は昭和18年に火災の被害を受け、のちに解体されます。戦後の30年、復興に向け地元住民らの出資で通天閣観光が設立され、翌年に現在の通天閣が建設されました。通天閣は住民にとって心のよりどころでした。

ドン底救った「ビリケンさん」

その住民の一人で後に社長になった祖父・高井昇の遺志を継いで、通天閣観光に入社したのは平成17年。しかし当時の新世界はドン底状態。あちこちがシャッター通りになっていました。再興には、通天閣に人を呼ぶ必要がある。最初に目をつけたのは、今や大阪を代表するキャラクターとなった「ビリケン」でした。

ビリケンは1908(明治41)年、米国の女性芸術家が「夢の中で見た神様」をモデルに制作し、当時世界的に流行したマスコットです。明治45年、通天閣と共に開業した遊園地にも置かれていました。このビリケンから通天閣人気につなげようと、各地に出張させ売り込みました。新世界の串カツ店もビリケンを置き、街中にあふれるようになりました。

意識したのは、気軽に足を運べるように通天閣を観光タワーに特化させること。その結果が平成19年度から13年連続で年間入場者100万人以上の達成につながったのだと思います。

コロナ前を上回る入場者に

令和元年6月の社長就任後は、新型コロナウイルス禍に見舞われました。打開策のコンセプトに据えたのは「昭和イズム」。幼少期に親しんだ近所の公園の滑り台をヒントに4年5月、通天閣の地上22メートル部分から滑り降りるタワースライダーを導入しました。

昨年度の入場者はコロナ前を上回る約137万人となりました。今年7月には地上約40メートルから飛び降りるアトラクションが稼働。レトロな昭和感を維持しながら、常に攻めの姿勢を忘れません。

今も新世界は細い路地に入れば昭和感が満載ですが、コロナ後は外国人観光客が急増して、街も整備され、雰囲気が変わりつつあります。それでも、変わらないのは通天閣あっての新世界ということ。これからも通天閣は、昭和のシンボルであり続けます。(聞き手 格清政典)

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