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12歳の少年が見た昭和30年 集団就職で東京の工場へ行った兄は変わってしまったのか プレイバック「昭和100年」

産経ニュース 2024年12月1日 8時50分

<当時の出来事や世相を「12歳の子供」の目線で振り返ります。ぜひ、ご家族、ご友人、幼なじみの方と共有してください。>

保守合同、自民党が誕生

集団就職した2番目の兄から手紙が来た。僕の家は男ばかりの4人兄弟。上から進、勇、勝利、博だ。進兄ちゃんは日中戦争が始まった昭和12年、勇兄ちゃんは大陸で戦線が拡大していた15年の生まれだ。

僕は日米戦争ただ中の18年だが、「しょうり」ではなく「かつとし」と読む。ぼくだけ漢字2文字なのはどうかと思うが、それだけ日本に勝ってほしかったのだろう。終戦後に生まれた弟は博士にでもなってほしいのかもしれないが、デキは兄弟で一番悪い。

勇兄ちゃんは学校でも成績は1番だったが、家や田畑を継ぐ進兄ちゃんしか高校へは入れてもらえなかった。中学の同級生も何人か一緒に同じ列車に乗って東京へ行き、大田区というところの工場で働いている。

兄ちゃんは元気でやってるそうで、手紙には、東京では都電の間をぬうようにたくさんの自動車が走っていることや、「銀座」と呼ばれる商店街がいろんな街にあることなどが書いてあった。給料は月に5000円にも満たないが、ここから寮費や食費などを引かれて実際には半分も残らないらしい。それでも手紙には兄ちゃんが入れた100円札が2枚入っていて、母ちゃんは泣いていた。

この年は5月に紫雲丸という瀬戸内海の国鉄連絡船が別の船と衝突して沈没、修学旅行の小学生ら168人が亡くなる事故があった。同じ船はこれまで何度も事故を起こしていたのに救出がうまくいかず、新聞にすごくたたかれた。ただ、その新聞も、助けを求める乗客の写真を載せたことで「写真の前になぜ助けなかったのか」と批判された。

森永ヒ素ミルク事件/紫雲丸事故

8月には森永の工場で作られた粉ミルクにヒ素という毒物が入っていて全国で100人以上の赤ちゃんが亡くなる事件も発覚した。国鉄や新聞社だけでなく森永まで、大きな組織が問題を起こすことが増えているように思う。景気が良くなって忙しくなった分、働く人に余裕がなくなっているのだろうか。

都会ではノイローゼという言葉がはやっていて、仕事や人間関係で悩んで精神的に落ち込むことを言うらしい。父ちゃんは「戦後の食うや食わずの時なら落ち込む暇なんてなかった。ぜいたくだ」などと言っていたが、今は一家で農作業していればよかった時代とは違う。勇兄ちゃんのように都会で1人で生きていれば、さみしくてつらいことも多いと思う。

秋も深まったころ、勇兄ちゃんから久しぶりに手紙が来た。仕事よりも組合活動やデモが忙しいと書いてあって、「われわれ労働者は資本家に搾取されている」と難しいことも書いてあった。夏に来た手紙では、できたばかりの後楽園ゆうえんちでジェットコースターというスリル満点の乗り物に乗ったと楽しそうに書いてあったが、兄ちゃんにいったい何があったんだろう。頭が良くて正義感が強かっただけに心配だ。

11月には国会で自由党と日本民主党が合併して自由民主党という新しい政党ができた。ラジオのニュースでは、その少し前に革新系の社会党の左派と右派がくっついて、それに対抗するために保守系がまとまったと言っていたが、勇兄ちゃんの行動もこうした政治の動きと何か関係があるのだろうか。それとも都会の生活がつらいだけなのか。

僕もあと3年もすれば、たぶん集団就職で東京へ行くのだろう。正直言って行きたくない。このままずっと家族と一緒に田んぼや畑を手伝っていたい。

勇兄ちゃんを心配して東京へ様子を見に行った父ちゃんが帰って来た。詳しいことは僕たちには教えてくれなかったが、母ちゃんと遅くまで話し込んでいた。勇兄ちゃんは正月も帰ってこなかった。

※地方の次子以降の子供が中学や高校を卒業後、都会の工場などで働く集団就職はこのころから増え始め、昭和30年代後半には「集団就職列車」も本格化、40年代中頃まで続いた。団塊世代が中学を卒業した38年から40年ごろは有効求人倍率が3倍を超え、「金の卵」とも呼ばれた。

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