《巨人に移籍して4年目(昭和54年)、突然襲った左目の異常。6月27日に登録抹消、約2カ月後の8月21日に1軍登録されたが…》
5月の遠征帰りの飛行機の中で異変を感じたんです。「中心性網膜炎」という病気です(※正式には『中心性漿液(しょうえき)性脈絡網膜症』。ストレスなどが原因とされる)。目は野球選手にとって命です。眼科の最高権威という順天堂大学順天堂医院(東京・本郷)の先生に診てもらったら原因がわからず、治しようがないという。途方にくれました。たまたまうちのマンションに住んでいた眼科医の先生が「野球ができるまでオレが治してやる」と言ってくれてね。
千葉の津田沼で小さな眼科医をやっていた。毎日通いましたよ。毎日通わなくてもいいんですが、とにかく治したくて、わらにもすがる気持ちでした。2階の診療所はちょっと暗くしてあり音楽が流れていた。そこで検査、治療をする。眼球の黒い部分がある。一番悪いのは、その中心に水ぶくれができる。横はちょっと見えるが、真ん中がぼやけて見えない。
私のは(水ぶくれが)その黒い部分にちょっとかかっていると聞きました。角度によっては見えない。見えても真っすぐの線がゆがんで見える。だからボールが追えない。0・1まで落ちた視力ですが、治療のおかげで0・7まで回復しました。ボールが見える。ボールを追えるようになった。復帰して再び野球をやり始めましたが、その年は初めてシーズン100安打を切ったんです(60安打)。
《待っていたのは〝ストーブリーグ〟。オフに入ると神奈川・茅ケ崎のゴルフ場、スリーハンドレッドクラブでロッテ・重光武雄オーナーが巨人・正力亨オーナーを招いて〝グリーン会談〟。移籍問題が本格化する…》
3000安打まで残り39本でした。巨人で記録を達成したいという思いはありました。チーム状況がそれを許さなかったようです。そろそろ王(貞治)の引退の話もあり、同じ年の私も引退が近づいていた。(翌55年に)2人が同時に引退するというのは巨人にとって、大変だという話を後で聞きました。当時の巨人の長谷川実雄代表が私の家までやってきました。
「何とかロッテへ移ってくれないか」と言われました。「あと39本ですから、何とか巨人でやらせてください」とお願いしましたよ。長嶋茂雄監督のところにも行きました。でも会ってもらえませんでした。そりゃ、会わないよね。当然ですし、しようがないよね。「こりゃ、長嶋さんに迷惑をかけちゃいけないよな」と帰ってきました。
ロッテ・重光、巨人・正力のオーナー同士が決めていることで、もうどうにもならない。正力オーナーの上にいた読売新聞の務台光雄さんのところまで話は行っている。重光オーナーも「張本をくれ、現役引退したら監督をさせたいんだ」って。もう決定事項でした。
《翌55年1月5日、東京・大手町の事務所で移籍受諾。自らの人生を「義理と信頼感で生きてきた」と形容し、「自分の意思を通すことは双方の球団を傷つける」が惜別の辞。ロッテ側にも事情が。当時、韓国政府は財閥を優先する経済政策を推進し、ソウルの産業銀行本館跡地を駐車場建設を理由にロッテに売却させる方針を示し、ロッテはそこに現在のロッテホテル新館と百貨店を建設した…》
当時、ロッテは国会で追及されていた。数年間は無税という約束で今のホテルを建てたと言われていたからね。それで大騒動になっていた。「張本は韓国では『張勲(チャンフン)』という名前があるらしい。(ロッテが)仲間に引き入れれば、(世間の)風当たりも薄くなるんじゃないかと思ったんじゃないのかな」と知り合いの韓国の有力者が言ってましたよ。「彼(重光オーナー)は賢いから、正力に頼んだんだろう」ってね。お互いに、いろいろあるんですよ。(聞き手 清水満)