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多忙を極めた写真週刊誌全盛期 ライバルは憎悪の対象「暗室でも一切、口を利かなかった」 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<17>

産経ニュース 2024年7月18日 10時0分

《写真週刊誌「フライデー」(講談社)の専属カメラマンとしてスタートした報道カメラマンのキャリア。ライバルも多かった》

大学には田舎にいない天才がいましたが、社会に出たらもっとすごい人たちがいました。自分より優秀な同僚は「目の上のたんこぶ」。後の動物カメラマン、故・小原玲さんらです。本当に嫌いで憎悪の対象でした。暗室でも一切、口を利かなかったですから。他誌にもいましたね。フォーカス(新潮社、休刊)は特にすごかった。そういう意味では非常にもまれ、鍛えられました。

フライデーの創刊は昭和59年の11月。忙しくてお金を使う時間もなかったので、最初に車を買っちゃいました。イタリア車のフィアットを知り合いの編集者に譲ってもらいました。でもドライブする時間はないので、使うのは取材のとき。出社時間は特になく、自宅から現場に直行する方が多かったと思います。早朝だったり夜中だったり。専属カメラマンには専属料が払われていて、編集部がどんなに仕事を頼んでも人件費は同額。だから使いやすかったんです。

《待遇は破格。大学を卒業して間もない社会人がもらうような額ではなかった》

週刊誌だったので、給料も月給ではなく週給でした。最初の基本給は4万円。それが5万円、6万円と増えて、最後は7万円くらいまでいったと思います。手当も付きました。張り込みは1万円、掲載されたら3万円とか。危険な取材で少し色を付けてもらったこともありました。

写真週刊誌全盛で、誰も部数の心配なんかしていなかった時代です。編集部では「札を刷っているようなもの」なんて言っていました。2年目には、自分の写真がコンスタントに掲載されると、ひと月の手取りが50万円くらいになりました。40年近く前の話ですが、もらい過ぎですね。

ただ、勤務はハードでした。当時、フライデーの最終締め切りは例外を除くと水曜日正午。それまでにプリントを仕上げないと掲載できません。休みは水曜日午後と木曜日だけ。当時、専属カメラマンは男性6人、女性1人の計7人で、自分が最年少でしたが、2日とも休む人はいなかったですね。

禁酒ルールもあって、週末の金曜日から日曜日までは「飲んじゃ駄目」と言われていました。急な取材が入ったとき、車が運転できないからです。でも、言われなくても飲む人はいませんでした。飲みに行く時間もなかったので。

《歴史的な大ニュースが続いた新人時代。無我夢中だった》

講談社にはフライデーのカメラマン控室があり、おのおのの行動予定を書き込むボードが設置されていました。そこに黄や赤の磁石があって「泥」や「沼」、「血」などと書いてあるんです。行き先に加え、「泥沼の張り込みになる仕事」だと「泥」「沼」などを一緒にはり、「取材対象が凶暴で血を見そう」というときは「血」の赤い磁石をはったり。そういう遊び心もありましたね。

控室での賭け事と飲酒は禁止でした。ベッドが3つあって仮眠もできましたが、そこで寝たのは自分くらいだったかな。朝早いときなんか、控室で寝てそのまま現場に行っていました。

フライデー創刊から1年ほどは大ニュースが続きました。巨額詐欺事件に関係した豊田商事会長刺殺事件(60年6月)、日航ジャンボ機墜落事故(同年8月)、いわゆる「ロス疑惑」で三浦和義氏逮捕(同年9月、日本では無罪確定、故人)などです。女優の夏目雅子さんも9月に亡くなりました。まさに写真週刊誌のためにあったような1年間でした。

〝ニュースの洪水〟の中を若さだけで突っ走り、思いきりもがいていた時期です。でも、やりがいを感じていました。(聞き手 芹沢伸生)

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