1980年代にアイドルとして人気を博した女優は、40代で介護の世界に足を踏み入れた。50代になると准看護師の資格も取得。還暦を迎え、福祉の世界でさらなる高みを目指している。(聞き手 小川記代子)
今は週1日、都内の認知症専門クリニックで准看護師として採血やMRI検査を行っています。また、週1日は認知症の方が共同生活を送るグループホームでケアマネジャーとして、利用者や家族から思いやご意向を聞くなどし、介護のプランを作成しています。
《介護の世界に入ったのは40代だった》
女優の仕事には、ぽっかりと時間が空くときがあります。日舞や三味線、スポーツにも取り組んでみましたが、私の心の穴はふさがりませんでした。そして、思い出しました。20代のころに雨の中でタクシーがつかまらずに困っていた体の不自由な人を車で送ったこと、友人のダウン症のお子さんとの出会い…。「自分の心の穴をふさぐのは福祉の仕事だ」と思い、ホームヘルパー2級の資格を取りました。
《資格は取っても働く介護の現場は容易に見つからなかった》
女優業の空いた時間で、と言うと、どこの施設でも断られました。きちんとシフトを組めないのでは当然ですよね。約30カ所に断られ、ある施設だけが「まずは来てみれば」と言ってくれた。初めて施設の玄関に入ると、大勢の高齢者の視線を一斉に浴びました。現場に接し、「逃げたい」と思いました。
《しかし逃げずに、働き始めた。「縁かもしれない」と思ったという》
利用者と触れ合って、「もっとこの人のことを知りたい」と思うようになったこともありますね。私は相手にとても興味を持ってしまう。マンツーマンで話したくて入浴介助、夜間の状況が知りたくて夜勤、とどんどん介護の世界に入っていきました。「女優が来たけど、すぐに逃げ帰ってしまった」と思われるのも嫌でした。意地、もありましたね。
《女優と介護の仕事の兼ね合いに苦しんだ時期もあった》
1カ月間、午前中に介護の仕事をして、自転車で帰宅し、浴衣に着替えて舞台の稽古に行ったり、京都の撮影所での仕事を終えて新幹線で帰京し、夜勤の仕事に入ったりしたこともありました。スケジュールの調整が難しくなり、個人事務所にしました。
《准看護師になるための学校に入学したのは54歳のときだった》
ケアマネジャーとして介護のプランを作るとき、医師や看護師などとチームを組みます。医療の知識がない私が、チームをまとめられるのかと悩み、入学を決断しました。授業や実習は厳しかったです。ベッド上での洗髪実習のときは徹夜で練習して臨みました。実習後は内容や成果を発表するのですが、皆の前で厳しい指摘を受けます。何度もトイレで泣きました。女優として監督によく怒られていたので慣れてはいましたが、それでもきつかったです。
《体力的にきついこともある》
女優のときの立ち回りで両肩を脱臼したことがあり、体重の重い高齢者を持ち上げる際に「肩、大丈夫かな」と不安になります。できないこともあります。ただ、介護の世界はいろいろな職業から入る人が多く、年齢も私より上で始めた方もいます。
《60歳になり、「楽しい」を大事にしている》
残りの人生を考えると、今、この大切な時間を楽しく過ごしたい。若いときは苦しさを我慢していたけれど、心身ともに良くありません。楽しいと思える環境に身を置き、健康に生きていきたいです。
《今後、どのような道を進みたいのか》
居宅での看取りまで目を向けたプランを立てられるケアマネジャーになりたいです。居宅の支援は地域にネットワークを築いて、プランに反映させることが必要です。まだそのレベルに達していないので、頑張りたいです。
北原佐和子
きたはら・さわこ 昭和39年、埼玉県生まれ。「ミス・ヤングジャンプ」に選ばれ、57年にアイドルデビュー。「水戸黄門」などのドラマや映画、舞台で女優として活躍。平成17年にホームヘルパー2級、26年に介護福祉士、29年にケアマネジャー。令和2年に准看護師の資格を取得した。著書に『ケアマネ女優の実践ノート』など。