森永さんは1月28日に亡くなられました。令和6年12月の取材をもとに連載します。
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《猛烈な勢いで働いてきた半面、家族との関係は希薄だった》
私は究極の仕事人間で、シンクタンクに勤めていたころは、職場での連泊もしょっちゅうでした。
妻とは私が日本専売公社(現日本たばこ産業)にいたときに職場結婚しました。2人の子供が生まれましたが、子育ては彼女に任せきり。関係は冷え切り、子供からは「うちは母子家庭だ」とまで言われる始末です。
平成18年には私の父親が脳出血で倒れ、半身不随になったのですが、その介護も任せっぱなし。それでも私は生活を変えなかった。メディアへの出演が増え、19年には都心にワンルームマンションを購入。家には週末しか帰りませんでした。
妻からは、離婚を切り出されたこともあります。
《がんになったことで、関係性に大きな変化があった》
妻と子供2人は、真剣に私の治療法を考えてくれました。私は現在、「要介護3」(日常生活でほぼ介護を必要とする状態)。着替えなどを妻に全部手伝ってもらう必要があります。
スーパーで買い物をする妻に付き合うことも増えました。そんな経験がなかったので、新鮮に感じました。
令和6年1月に退院したときは、家族が車で迎えに来てくれました。病院食にうんざりしていたので、「すしと焼き肉の食べ放題に連れていって」と言いました。家族は大反対でしたが、押し切りました。
少量しか食べられないので、小さな肉片を1つ、スープを1口くらい。それでもじっくり味わいました。一番幸せな食事でしたね。病院から解放されて自由の味がしたし、そばに家族がいてくれたからです。
医者から「来年の桜は見られないだろう」と言われましたが、4月には埼玉県所沢市の自宅に近い狭山湖で、花見ができました。家族で花見なんて、初めてのことでした。
「生きている」。満開の桜の下に家族といることを、しみじみと喜びました。こういう生き方もいいな、と思いました。
《そして…》
家族の絆が復活して、ハッピーエンド、♪ちゃんちゃん…となればよかった。でも、だめでした。「そういう時期もあった」というだけ。時間がたつとだんだん元通りになっちゃう。私の容体が安定しているので、みんな忙しい日常に戻り、結局、バラバラ。家族でどこかに行ったのもあれきりでした。
《ドライな物言いだが、言葉の端々に家族への思いがにじみ出る》
抗がん剤の副作用で倒れている時期には息子たちに助けてもらいました。
長男で私と同じ経済アナリストの康平は、私の代わりにテレビ出演などをこなしてくれました。評判も良く、今では私より多くのオファーをいただいています。IT技術者の次男は、私が病床で著書の口述筆記をするのをサポートしてくれました。
私は昔から全然モテない。女性からはいつも「キモい」と言われてきた。でも、妻だけは言わなかったんです。私と結婚してくれた理由は「怒らないから」というものでした。確かに、私は感情的に怒ることはほぼありません。
実は病気になって、一生懸命彼女に嫌われようとしたんです。嫌いになれば、私がいなくなっても彼女は悲しまずに「せいせいした」と思ってくれるでしょう? でも、私の演技力ではだめでした。彼女だけはだませない。本当に特別な人。余人をもって替え難い存在ですね。(聞き手 岡本耕治)