滋賀県長浜市の豊国(ほうこく)神社で、戦時中に出征兵士やその家族が「武運長久」などを願って奉納した絵馬数千枚が社殿天井裏で見つかり、年末にほぼ全てが焚(た)き上げられた。保存を求めた戦争研究家らが県庁で24日に記者会見を開き、「出征兵士の絵馬が大量に見つかるのは全国でも例がなく、貴重な資料が失われた。今後同じようなことがあってはならない」と訴えた。神社側は「事を終えた絵馬は焚き上げるのが本来の形」と説明している。
同神社によると、絵馬の存在を知ったのは約2年前。社殿の雨漏りを修理していた業者から「天井裏にたくさんの絵馬がある」と伝えられたのがきっかけという。昨年11月に神職が天井裏で確認したところ、わらひもで結んだ絵馬の束が梁(はり)にずらっと掛けてあり、ひもが腐食して床に落ちているものも多くあった。
絵馬はすべて下ろされ、重さから約3600枚と概算された。昭和12年の日中戦争から20年の終戦にかけてのもので、「武運長久」「皇軍戦勝」などの願いのほか、祈禱(きとう)者の名前や住所、日付が手書きで記されていた。49年に死去した先々代の宮司が燃やさずに天井裏で保管したと考えられるが、その理由は不明だという。
会見には戦争研究家の辻田文雄氏(77)と長浜市在住の元新聞記者、出雲一郎氏(69)が出席。辻田氏は「出征兵士の絵馬は全国のどこの神社にもあっただろうが、戦後すぐに進駐軍の目に触れるのを恐れて焼かれたはず。80年の時を経て見つかるのは奇跡だ」と戦争資料としての重要性を強調した。
さらに辻田氏は「長浜の兵士は南京(中国)やレイテ島(フィリピン)などに出兵しており、奉納した人の半数以上は戦死した可能性が高い」と指摘し、「当時の宮司は遺品として絵馬を残したのかもしれない。少なくとも1~2年は遺族らに公開し、返却や保存の方法を検討する必要があったのではないか」と話した。
出雲氏は焚き上げの5日前に地元紙の報道で絵馬発見の事実を知り、辻田氏とともに神社に頼んで絵馬を実見した。出雲氏は、記録保存などのため絵馬をひとまず自宅で預からせてほしいと掛け合ったが、神社側は「神域外に出すことはできない」として退けた。
湯本崇彦宮司(53)は「戦争資料として保存するべきだという意見があることは承知しているが、祈願をして事を終えた絵馬は、すみやかに祝詞をあげて浄化し、焚き上げ供養をするのが本来のあり方だ」と説明する。ただ戦争資料として20枚だけ残しており、滋賀県護国神社に近く奉納するとしている。
辻田氏は「絵馬は紋切り型の表現ばかりで資料的価値がないと思われがちだが、研究機関やマスコミの目を通すことで、戦争に翻弄された人生のいくつかを明らかにできたはずだ。二度と戦争を起こさないためにも、戦争資料は大切に保存されなければならない」と話した。(川西健士郎)