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大阪証券取引所ビル 五代が守る金融街のシンボル 姿変えても変わらぬ「北浜の顔」  大大阪モダン建築を歩く 金融街編

産経ニュース 2024年10月25日 10時30分

大阪の北浜、といえばこの建物のシルエットを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。堺筋と土佐堀通の交差点を向く大阪証券取引所ビルのエントランス。丸みを帯びたユニークな外観は長い間、金融街・北浜のシンボルとして親しまれてきた。大阪株式取引所から大阪証券取引所、大阪取引所と名称は変わり、建物の姿も変化したが、今も北浜の歴史を体現する建築であり続けている。

「大阪の恩人」健在

建物に近づくと、まず注意をひくのが正面にそびえる銅像だ。

高さ約8メートル近くもある銅像の人物は、NHK連続テレビ小説「あさが来た」で脚光を浴びた薩摩藩出身の五代友厚(1836~1885年)。大阪の造幣寮(現・造幣局)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪公立大)などの設立に関わり、功績の大きさから「大阪の恩人」とも呼ばれた。

大阪取引所の前身で、明治11(1878)年に誕生した大阪株式取引所の設立にも発起人として関わった経緯もあり、平成16年、取引所の正面に銅像が設置された。

「ドラマが放映されてから取引所の見学希望者が急に増えたことを覚えています。3年前の大納会では五代を演じた俳優のディーン・フジオカさんをゲストに迎え、取引を締めくくる鐘を打ち鳴らしていただきました」と大阪取引所金融リテラシーサポート部の西小路俊之部長は振り返る。

令和の時代もなお、五代の影響力は健在のようだ。

機能性と古典同居

大阪証券取引所ビルのエントランスは、昭和10年に建てられた旧大阪株式取引所市場館の玄関部分を保存したものだ。

「基本的には装飾を抑えて機能性を重視したモダニズム建築ですが、列柱を設けて正面性を強調するなど古典的な部分も同居した建物といえます」と、案内してくれた大阪公立大の橋爪紳也特別教授は解説する。

主に設計を担当したのは、長く住友関連の建築を手掛けてきた竹腰健造(1888~1981年)。しかし、取引所の設計は経験豊富な竹腰にとっても戸惑いの連続だった。

建物の完成後、竹腰は雑誌「建築と社会」に寄せた文章の中で、市場の使い勝手を最優先に設計を行ったという意味のことを述べている。玄関部分も当初は円形の予定だったが、市場館の中枢となる立会場の拡張を優先した結果、楕円形に縮小されることになった。

地域の歴史つなぐ

2千人以上の収容が可能となる立会場には、仲買人をはじめ大勢の関係者が出入りする。声と手振りで注文を取り次ぐため、音の反響はできるだけ抑える必要がある一方、価格の決定を告げる拍子木の音はよく響くようにしなければならない。採光は株価の表示板が見えるように明るくなければならず、またどの場所にいても表示板を見通せるようなレイアウトを考える必要もあった。

竹腰はそれらの課題に、壁の素材を場所によって使い分けたり、4階分の高さを持つ立会場の天井部分を天窓とし、光を取り入れることで対応。表示板については壁をゆるやかな曲面とし、両端からでも見えやすくした。

雑誌「建築と社会」は、完成した取引所について「立会の機能、採光、及(および)音響は苦心の甲斐あって成功している」と評している。

だが、竹腰が心血を注いだ市場部分は今はない。取引の電子化に伴って立会場は平成11年に廃止。立会取引を前提にしたすべての機能も役目を終え、12年に市場館は閉鎖された。取り壊しの危機に直面したが、楕円形の玄関部分はそのまま残し、立会場跡に24階建ての高層ビルを建設することで決着。現在見られるような姿になった。

自身が監修を担当した「堺筋まちかど写真展」(26日から11月24日まで)を大阪証券取引所ビルで開催している橋爪特別教授。「建物の象徴的な部分が残ったことで地域の歴史をつなぐ場として活用することができる。北浜にとって大きなことだと思います」と話す。

取引所の存在を誇示するために生まれた「北浜の顔」。今は、地域を束ねる拠点として新たな役割を担っている。(荒木利宏、写真も)

旧大阪株式取引所市場館(大阪証券取引所ビル)

・大阪市中央区北浜1の8の16

・竣工 昭和10年(平成16年保存建て替え)

・構造 鉄骨鉄筋コンクリート造(地上6階、地下2階)

・設計 長谷部竹腰建築事務所

・イケフェス大阪開催中の26、27日にビルの見学ツアーを企画。両日とも午前10時~午後3時の間で計6回実施。

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