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「軍国少年」が大泣きした終戦の日 なぜ? 「憧れの海兵」に行けなくなったから 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<8>

産経ニュース 2024年10月8日 10時0分

《「総一朗」の名は長男として生まれたから。「90歳で現役」の田原さんも幼いころは身体が弱かったという》

肺炎になって死にかけたこともあるし、胃腸が弱くて、すぐおなかを壊してしまう。それでも脂っこいものや辛いものを避けるなど、食べるものに気をつけているうちに、だんだんと丈夫になりました。幼稚園に通い出したころには、外で近所の子供たちと遊び回り、すっかり〝ヤンチャ〟でしたねぇ。

《彦根市立城東国民(小)学校に入学したのは先の大戦が始まる年(昭和16年)の4月》

戦争が始まってからは、小学校を国民学校と呼ぶようになった。4年生からは軍事教練も始まったのかな。夜になると、日本軍の〝華々しい戦果〟を伝える大本営発表を一家で聞くのが楽しみでしたね。

海軍兵学校(海兵)へ行った、いとこがいたんですよ。制服がカッコよくてね。あこがれました。「僕も絶対に海兵へ行く」「海軍の士官になるんだ!」って。もうバリバリの軍国少年(※当時は「少国民」と呼んだ)でしたから。

学校の先生もそう。この戦争は、世界中を植民地化しようとする〝鬼畜米英〟を打ち倒し、アジア諸国の独立・解放を手助けする、正義の戦いである。「お前たちも早く大人になって天皇陛下のために戦い、名誉の戦死を…」とずっと教わってきたのです。

《だが、昭和20(1945)年8月15日、日本は敗れ、ラジオでは天皇陛下の「終戦の詔書」が流された。いわゆる〝玉音(ぎょくおん)放送〟である》

このとき僕は国民学校の5年生。11歳の夏休みかな。

(8月15日の)正午から大事な放送がある、ということで僕も大人に交じってラジオの前に座りました。ラジオがない家の人は、僕の家に集まってきたのを覚えています。

やがて、放送が始まったのですが、ノイズが多くて聞き取りにくい。その上難しい言葉が多くて、大人たちもよく意味が分からなかった。「堪(た)え難(がた)きを堪え、忍び難き…」というくだりがあったので「もう少し頑張って、戦い抜くんだ」と誤解した大人たちも多かったらしい。

ところが午後になって、市役所の職員が回ってきて、メガホンを口に「戦争は終わりました。残念ながら日本は敗れました」と触れ回りました。これで、皆がやっと敗戦の事実を知ったわけです。

《田原少年は祖母が暮らしていた離れの2階に籠もり、ひとり大泣きに泣いた》

なぜ泣いたのかって? これははっきりしている。もう「憧れの海兵」に行けなくなったからです。海兵の士官になって、天皇陛下のために戦い、華々しく戦死する夢がついえてしまった…。絶望的な気持ちでしたねぇ。泣いて、泣いて、泣き疲れて僕は、知らぬ間に眠ってしまったらしい。目覚めたときにはもう夜になっていた。

ふと、窓から外を見たら街が「明るい」んですよ。それまでは空襲に備えて「灯火管制」が敷かれていたから、ずっと街は暗かったんです。この光景を見た僕は、複雑な気分になったけれど、「街が明るいって、いいなぁ」って。

《やがて夏休みが終わり、秋になると、学校の授業も再開された。GHQ(連合国軍総司令部)占領下に置かれた先生は子供たちに対して、それまでと「まったく違うこと」を言い出した。このときの経験が田原さんがジャーナリストの道を歩む「原点」となる》(聞き手 喜多由浩)

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