「将棋好き兄弟います」玄関に貼り紙
私が生まれたのは戦後20年になろうとしていたころで、昭和39年には東海道新幹線が開通し東京五輪が開かれました。親世代のがんばりのおかげで、日本がどんどんよくなっていく。ダイナミックな時代でした。
子供のころ、モノクロでしたが、家にテレビがやってきました。テレビの前に座るとわくわくして、特にNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」を夢中で見ていました。
小学2年のときには、大阪で開かれた万博に行きました。細かくは覚えていませんが、科学ってすごいなあと子供心に日本人の力強さを感じていました。
日本中が躍動する時代でしたが、家族のつながり、地域のつながりはまだ強く残っていました。
実家は神戸市須磨区の寺で、両親と祖父母、そして兄の6人家族。いつも兄弟げんかをしているのを見かねた父が、将棋盤と駒を買い与えてくれました。5歳のときのことです。これが将棋との出合いでした。
けんかをしないよう勧められた将棋でしたが、5歳年上の兄にかなうはずがなく、負けてばかり。負けず嫌いの私がつっかかるかっこうで、結局、けんかは収まりません。それでも私たちは将棋に熱中し、ともに上達していきました。
あるとき、父が「将棋の好きな兄弟がいます。遊びに来てください」と書いた紙を家の玄関に貼りました。これを見た子供や大人が将棋を指しに来ました。当時、どこででも見られた「縁台将棋」です。老いも若きも気軽に将棋を楽しみ、多くの子供が自分の親ではなく、近所のおじさん、おじいさんから将棋を教わっていたものです。
「縁台将棋」の経験がゲームソフトに
私は市内の将棋教室にも通うようになりますが、ここでも多くの大人の方に相手をしてもらい、かわいがっていただきました。私の将棋人生の原点は縁台将棋にあります。
将棋を覚えたころは大山康晴先生(十五世名人)の全盛期で、名人は遠い存在でした。ところが、11歳で奨励会に入る前の年に衝撃的なことが起きました。中原誠先生(十六世名人)が、24歳の若さで大山先生から名人位を奪ったのです。若くても活躍できるんだ―。名人が身近になった気がしました。
中学2年でプロ棋士になり、中原先生に勝つことを目標に掲げました。21歳で加藤一二三先生に勝って名人位に就くことができました。2年後、中原先生に名人を奪われましたが、その3年後に奪い返すことができました。目標としていた中原先生を破って名人に復位できたことは、私にとって意義深いものでした。
余談ですが、名人になったころ、困ったことがありました。コンピューターゲームのスーパーマリオです。のめり込みすぎてはいけないと自制していたつもりですが、おもしろすぎてけっこう長い時間やってしまいましたね。
コンピューターゲームといえば、「谷川浩司の将棋指南」という私の名前のついたゲームソフトが昭和の終わりに出ました。今でこそ多くの子供がゲームで将棋を覚える時代ですが、当時は、縁台将棋の時代に勉強した自分がこんなソフトを監修することになるとは―と、時代の移り変わりを感じました。(聞き手 古野英明)