産経新聞の僚紙「夕刊フジ」が来年1月末日で休刊する。多くのサラリーマンたちが会社帰りに手に取った《オレンジ色の憎い奴》とは、どんなやつだったのだろう。1969(昭和44)年2月26日生まれ、55歳。日本初のタブロイド夕刊紙。創刊号の1面を飾ったのは石原慎太郎氏。なぜ石原氏だったのか? われわれの大先輩・馬見塚達雄(故人)の著書『夕刊フジの挑戦』をもとに、いろんな「なぜ」をひもといてみよう。
「夕刊フジ」が生まれた1960年代末、日本は「激動の時代」に突入していた。
佐藤栄作首相(当時)の訪米と外遊に反対する学生と警察隊が衝突した「羽田事件」が起きたのは昭和42年10月。
43年は米原子力空母エンタープライズの長崎・佐世保港への「寄港阻止騒動」で幕を開けると。2月には静岡県清水市(当時)で2人を射殺した男が、人質をとって温泉旅館に立て籠もる「金嬉老事件」が勃発。そのあとも「成田闘争」「新宿騒乱」-。12月には東京・府中で「3億円強奪事件」が起こった。
こうした世相を背景に「夕刊フジ」は誕生した。だが、なぜ、《夕刊紙》で《タブロイド》だったのだろう。『夕刊フジの挑戦』の中で馬見塚先輩はこう述べている。
「当時、大阪に比べて東京は夕刊紙が少なかった」
大阪では産経が発行していた大阪新聞をはじめ、大阪日日、新関西、新大阪新聞、国際新聞…と買う方が迷うほど。それに比べ東京の夕刊紙は東スポ、内外タイムスぐらい。さらに本社の調査によれば、帰宅時の電車内で新聞を読んでいる人は15%、新聞を持っているが読んでいない人30%だった。
「彼らはラッシュ時の車内で大判の新聞は広げにくいと考えている。だからマーケットは十二分にある。サイズはタブロイドが向いているという結論に達した」という。
実は当初の計画では、発行は東京のみ(半年後に大阪も発行)。夕刊フジは「東京のサラリーマン」に向けた夕刊紙だったのだ。
「人」と「事件」本音で報道
大阪では発行なし。東京のサラリーマンのための夕刊紙。ところが昭和43年初秋、製作実戦部隊として指名されたのは、なんと大阪産経編集局の精鋭たちだった。トップは編集局長の永田照海、紙面作りの責任者は社会部長の山路昭平。山路といえば…ここでまた馬見塚先輩の言を借りよう。
「明治から大正にかけての名ジャーナリストで史論家の山路愛山を祖父に、大阪産経のカミナリ編集局長といわれた山路久三郎を父にもち、文字通り新聞紙にくるまって育ったような」。その山路昭平が怒った。
「なんで大阪にいるオレたちがやらなきゃいけないんだ。東京で作ることになっていただろう!」
だが、山路はそれで逃げる男ではなかった。山路は新聞作りが好きだった。
彼が新聞記者になろうと思ったきっかけは、祖父や父の影響だけではなかった。24年、朝日新聞が夕刊を発行。その1面に掲載された『人物天気図』というコラムの切れ味のいい名文に「オレもこういう人物論が書ける新聞記者になりたい」と思ったという。
「オレに新しい新聞をつくれというのなら、このような『人』を柱にしたものを軸に据えたものにしたい」と山路は思い返した。
山路たち「特別準備本部」のメンバーたちは、創刊までに3度のテスト版を作った。テストといっても《本番》そのもの。1面のニュース記事はもちろん、企画原稿、連載に至るまで、そのまますぐに売り出せる状態だったという。こんな逸話が残っている。
あるテスト版の1面の原稿は44年の東大安田講堂事件。立てこもった学生と、警視庁機動隊との最後の攻防戦を前にした緊迫の安田講堂への潜入ルポだ。記者が支援学生に化け、記者の知人だった東大生に頼み込んで講堂内に潜入した。
大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して封鎖解除を行ったのは、それから数日後の1月18日。記者だとバレればリンチを受けるかもしれない、まさに《命がけ》の取材だったという。
山路はここで、ある編集方針を打ち出す。
「事件はいつも、そう都合よく起きはしない。大きな事件は一般紙やテレビ、ラジオでもトップに報じる。新しい夕刊紙でなくとも読者は満足する。それならもっと《旬》で、これから風雲を起こす可能性のある『人』を前面に推したい」
石原慎太郎、36歳。一橋大法学部時代に『太陽の季節』で芥川賞を受賞。弟は石原裕次郎。前年(43年7月)の参議院選挙で史上最高の301万票を獲得してトップ当選。「新党」結成も視野に入れている―というまさに《旬》の中の《旬の男》を山路たちは選んだ。
大新聞とは一味違う本音の新聞。夕刊フジのモットーは「人間を描く」「事件を読者の目の高さで切る」「タブーに縛られない」。それは休刊を迎える日まで変わらない。
名付け親は阪急のあの人?
「夕刊フジ」の名づけ親は阪急電鉄の総帥? 新夕刊紙の題字を何にするか。テスト版段階で使った「東京ニュース」が第1候補に挙がったが、すでにある出版社が商標登録していたことが判明。白紙の状態が続いていた。
そんなおりの昭和43年10月、フジテレビ社長の鹿内信隆が産経新聞の社長に就任。鹿内には「産経新聞」の社名を「フジ新聞」に変えたい―という思いがあった。ある日、関西テレビの番組審議会に出席した産経新聞編集局長の永田照海が、阪急の総帥・小林米三社長にこんなことを言われた。
「永田くん、鹿内社長は産経新聞をフジ新聞にすると言うてはるそうやないか。阪急や関西テレビは産経新聞やから応援してるのや。フジ新聞なんて、ボクは知りまへんで。そや、永田くん、キミ東京で新しい新聞作るとかいっておったね。あれをフジ新聞にしたらええがな」
こうして新夕刊紙の題字は『夕刊フジ』になったのである。(田所龍一)