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昭和45年生まれの私 歴史家、磯田道史さん「歴史家から見て昭和は十分に歴史」 プレイバック「昭和100年」

産経ニュース 2024年10月27日 8時50分

土器や竪穴式住居自作する少年

私が生まれた岡山市は遺跡の上に街があります。通ったのは古墳を一部崩して造った小学校でした。低学年のころ、人生を変える出会いがありました。京都帝国大学を出て夜間高校の先生をしていた方が近所にいて、「磯田君」と呼び止め、道端にある土器を指さしました。弥生土器を見てしまうわけです。

高度経済成長は終わったが、郡部から岡山市内に第2次、第3次産業の人々が移り、宅地開発でドラえもんに出てくるような土管のある空き地があって土器も普通に出土したのです。それが原風景となりました。

英語教師だった母は米国の百科事典「アメリカーナ」や平凡社の世界大百科事典を家に置いていました。全部読んで知識にしようという変な子供で。日本文学全集もあり、後年文章を書くに至り非常に役立ちました。大きく方向づけを変えたのは日本美術全集です。城郭や仏像などの写真がたくさんあり、子供でもきちんと分かる、いい文章で書いてあるんですよ。

リアルとバーチャルの往復を重視する私は、美術全集で土器を見て自分で作りました。竪穴式住居や高さ2メートルの出雲大社も。素材は、近所の大工に「おいちゃん、僕、その木の切れ端がほしいんじゃ」と交渉するんです。原っぱに生えている2メートルのセイタカアワダチソウを採って柱と梁(はり)の周りに並べ、屋根材にして。

掘りたいところを自由に掘れるのが考古学

工具も復元するため島根県の隠岐島に黒曜石を探しに行きました。さすがに丸木舟で渡ることは無理でしたが。山で掘ることも危ないというので、仕方なく原石を売ってもらいました。完成した矢尻でアルミを射るとすさまじい貫通で、驚いたなあ。自転車に乗り流鏑馬(やぶさめ)のように放ったら親に止められましたが。でも昭和は他人が割と子供と関わり、危険なことでもやらせてくれましたね。空襲の中を生き延びた人たちで、小さいことにこだわらず戦国の人のようでした。流鏑馬ごっこぐらいは当たり前で見ている人もいました。

考古学に興味がありましたが、集団行動が苦手で。掘りたいところを自由に掘れない。そこで1人で発掘できるのは古文書だと。1人で発見し、1人で歴史像が再構成できると思い、高校生から図書館で閲覧していました。受験勉強そっちのけです。えらい目に遭いました。世の中はそういうことを許してくれなくて。

令和の日本人は漂流状態

歴史家から見て昭和は十分に歴史です。初期は家意識や学歴主義が厳然とあり、江戸時代以降の忠義や孝行が生きていました。それが軍のない国となり、今や植民地だった地域より1人当たりの国内総生産(GDP)で日本が下となる世界となりました。令和の日本人は何をしたらいいか分からない漂流状態にあるのではないでしょうか。

でも、いいこともたくさんあります。GDPやお金以外の物差しの幸せ感に人類の中で最も早く気づいている可能性がある。大谷翔平選手も、昭和では出にくかったかもしれません。

昭和は好き嫌いで物事を判断せず、懐の大きな人がいました。私が回想録「自省録」で聞き手となった中曽根康弘元首相もそうです。教養主義と哲学を重視した中曽根さんは憲法改正が悲願でしたが、反対していた哲学者の梅原猛さんを尊敬し、私が所属する国際日本文化研究センターを作る予算を出し、初代所長の梅原さんと仲良しだった。これは非常に重要な点ですよ。(聞き手 酒井充)

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