森永さんは1月28日に亡くなられました。令和6年12月の取材をもとに連載します。
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《昭和32年7月、東京都目黒区に生まれた。父、京一氏は毎日新聞の記者。母と弟の4人で都営アパートに暮らしていた。「小学校に入る前の記憶はほとんどない」という。その後、京一氏の都合で、幼少期をアメリカ、オーストリア、スイスの3カ国で過ごすことになる》
人によっては「華麗な経歴」と受け取るかもしれません。でも、私にとっては、人生を大きく変えてしまった本当に嫌な経験なのです。
最初は1964(昭和39)年、小学1年生のときに米マサチューセッツ州のボストンに行きました。
この年、父がジャーナリストを対象にした留学制度試験に合格して、ハーバード大に留学することになったんです。でも、身分は留学生だから当然、渡航費は本人の分しか出ない。それなのに、父は一家全員を連れて行ったんです。
日本人の海外渡航がやっと自由化された年の話です。1ドルが360円の固定相場の時代ですから、飛行機代も相当高かったはず。私には話しませんでしたが、両親はこのとき、かなりの額の借金を負ったと思います。
それで、お金がないから、インターナショナルスクールには入れない。だから、ボストンの公立小学校に入学しました。
《先の大戦終結から、まだ19年。ここで米国人からひどいいじめに遭ったという》
当時はまだまだ米国人の意識は「リメンバー・パールハーバー」だったんですよ。ただ、彼らの名誉のために言っておくと、クラスの中で強烈な人種差別主義者って、多分1~2割くらいしかいなかった。8~9割はいいやつなんです。でも、この1~2割のやつらがこっちを徹底的に攻撃してくる。
学校では、もうボッコボコにやられました。肉体的にもやられるし、言葉の暴力や無視など行動の暴力も。
授業中にトイレに行きたくなったとするでしょう。米国の学校には、トイレにトイレットペーパーが置いてないんですよ。先生に申告して、トイレットペーパーをもらってからトイレに向かうんです。
でも私は英語が分からない。だから、教室の前に行ってジェスチャーで先生に「うんこに行きたいです」とやった。もう翌日から私のあだ名は「うんこ」ですよ。「うんこ」「うんこ」と猛烈にからかわれました。
さらに鬼ごっこをやると、みんな次々に捕まって鬼になるのに、私はまったく捕まらないんです。なぜか分かりますか? 彼らにとって黄色人種は同じ人間ではなかった。だから私には触らないんです。
《2年生のときに帰国。4年生のときに京一氏が外信部ウィーン支局長となり、一家は今度、オーストリアに移り住む》
ウィーン支局は、父一人きりでした。だから私が電話を取ったり、留守番をしたりしていました。子供支局員みたいな感じでしたね。
あくまで私の個人的な印象で話しますが、ウィーンの人は本当に陰湿でしたね。辞書には載っていないような微妙な差別表現があって、それを使われるんです。「音楽の都で街が美しい」とよく聞きますが、私は賛同できません。ここでも友達はまったくできず、孤独でした。
父も家にこもってばかりいる私を見て、不憫(ふびん)に思ったのでしょう。よくミニカーを買い与えてくれました。このころは父も特派員としてそれなりの収入があり、わが家も余裕が生まれていたんです。
これがどんどん増えて、最終的に日本に帰国した際には、1千台を超えていました。そして後の私のコレクター人生につながっていくことになるんです。(聞き手 岡本耕治)