《水原茂体制2年目の昭和37年、東映は開幕から21勝3敗と快進撃し、一度も首位の座を譲ることなく前年覇者でこの年2位の南海(現ソフトバンク)に5ゲーム差をつけ、78勝52敗3分けで球団創設17年目で初優勝。張本さんは打率3割3分3厘、31本塁打、99打点でMVPに輝いた》
前年、優勝争いして「やればできるじゃん」という意識があった。2年目になって水原野球の采配を理解するようになっていたと思う。選手もそれを考えてプレーする。チームの輪を乱すと容赦がなかった水原さんでしたが、若手もどんどん使ってくれたのも大きかったです。
エースの土橋正幸さんが26歳です。前年30勝でこの年は17勝(14敗)。レフトの私が21歳でしょ。内野手は二塁手が立教大からの新人・青野修三、遊撃手も同じく新人の岩下光一(芝浦工大)の22歳コンビが二遊間。三塁手の西園寺昭夫さんが24歳。外野はライトがキャプテンの毒島章一さんで26歳、まじめな人で落語が好きでね。センターの吉田勝豊さんが27歳、捕手の安藤順三さんが26歳だったかな。浪華商の後輩で2年生で中退して入った尾崎行雄も17歳、20勝9敗で新人王でしょ。みんな意気に感じて活躍した(※年齢は開幕時)。
《〝動くナイトクラブ事件〟で〝日本一〟を確信?!》
日本シリーズの相手は阪神でした。駒沢球場が改修で、東映のホームは神宮と後楽園球場を使った。甲子園で連敗スタートで東京へ移動です。でも私が巨人に在籍したときみたいに「勝たなきゃ、何の意味もない」という〝がんじがらめの雰囲気〟ではなかった。水原監督がリラックスさせてくれたんでしょう。
今は大阪、東京は新幹線で2時間半くらい。当時は7、8時間かかった。試合後の夜行寝台です。阪神と東映がそれぞれ1車両ずつ貸し切って同じ列車で移動した。夜9時過ぎ、車両に乗ってすぐ、土橋のあんちゃんを中心に6、7人で酒盛りを始めたんです。「〝動くナイトクラブ〟だ~」なんて叫んでね。窓を開けて、あるだけのビールを注文し、あるだけのおつまみを買い占めてどんちゃん騒ぎをしたんです。
隣の車両には阪神勢が乗っていた。カーテンを閉めて静かでしたが、当時、阪神にいた元東映の飯尾為男さんが出てきた。トイレに行こうとして私たちの宴会を見て「お前ら、何しとんぞ。うちらはみんな寝とるぞ」って。「為さん、入んなよ」と1杯だけ飲んで帰ったけど。
ちょうどそのころ、車両の隅にある寝台に寝ていた水原監督は悩んでいたらしいですよ。普通の試合でも、連敗したらシュンとしてるのに、ましてや日本シリーズですよ。監督は「こいつら、バカか」って。一瞬「何やってんだ!」って怒ろうと思ったそうです。でもこうも考えたらしい。「待てよ、このクソ度胸に賭けてみよう」と。水原さんは偉いよね、じっと我慢して朝まで黙って見て見ぬふりをしていたというんです。
あくる朝、私らはほぼ一睡もせず神宮球場に行った。でも選手はみんなキビキビと動いていたんです。後に水原さんに聞いたら「こいつら寝不足なのに、普段より動きがいい。うん非常にいい。これなら勝てる」ってね。第3戦で引き分け、そこから4連勝です。水原さんは当時〝駒沢の暴れん坊〟なんて言われた集団の〝個性〟を尊重してくれた。おかげで私も全7試合4番に座り打率4割6分2厘、1本塁打と暴れました。
夢みたいでしたよ。水原さんが来る前は5位、入ってきて2位、そしてリーグ優勝、日本一です。ちなみに就任1年目で2位になったとき(36年)、水原さんが「一番でなけりゃ意味がないんだ。2位もビリも一緒なんだ」って。スポーツの世界、これまでいろんな人が言っていますが、最初は水原さんの言葉なんです。(聞き手 清水満)