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日航ジャンボ機墜落での〝判断ミス〟 今でも深夜に汗だくでとび起きるほどのトラウマ 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<18>

産経ニュース 2024年7月19日 10時0分

《昭和60年8月12日夜、乗員乗客524人が乗る日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落、単独機の事故としては世界最悪となる520人が犠牲になった。このとき、何十年も悔やみ続けることになる、大きな判断ミスが…》

事故発生の夜、一報をキャッチしたにもかかわらず、現場に向かおうとしなかったんです。あの日は、兵庫県明石市の実家に婚約者と帰省していました。大学卒業後、59年4月に仕事を始めてから1年以上が過ぎ、やっと取れた初めての夏休みでした。それまではあまりにも忙しくて、休みもへったくれもなかったからです。それでも、女性と交際する時間だけはひねり出して、実家へ紹介しに行ったんです。

一報を知ったのは六甲山(神戸市)をドライブしているときでした。車のラジオから流れてきました。「レーダーから日航機の機影が消えた」と。でも、婚約者と実家に帰ったタイミングでしたから、他のことで頭の中はいっぱいでした。だから、すぐ編集部に電話して「帰ります」と言っていないんです。現場に向かおうと思えば行けたのに…。

編集部のカメラマンは全員、夏休みでしたから、東京にいた者は当然行っています。真っ先に現場に着いて、奇跡的に生存していた乗客が陸上自衛隊の大型ヘリコプターにつり上げ救助される、有名な写真を撮ったカメラマンもいました。

《帰省中に知った歴史的な墜落事故の発生。最初は静観したものの、次第に焦る気持ちが大きくなった》

さすがに発生翌日には後悔しはじめて、婚約者とけんかになりました。「君は何で『行け』って言わなかったんだ」みたいなことも言っちゃいました。これも離婚の原因になったかな。相手は「あなただったら、私をほっといて行くと思ってた」なんて、言ってくれましたが。

結局、最後は出遅れながらも夏休み中に現場へ行くんです。仕事にならないのは承知で。登ったのは1週間後ですから。そのとき現場ではまだ、遺体を入れた袋を陸上自衛隊のヘリコプターに積み込む作業が続いていました。でも、それ以外に自分で撮影した現場の写真は全くありません。

一方で、事故発生と同時に現場を目指し、一夜明けた現場で取材したカメラマンの写真が載った数々の雑誌を見て、すさまじさに愕然(がくぜん)としました。その後しばらくの間、カメラマンが集まると、なんとなく事故当時の御巣鷹山取材の経験談になるんです。

例えば、8月12日の夜は墜落現場が特定できず、「警察や自衛隊の車両が山中を右往左往していた」「暗闇の中、峠の道が赤色灯でつながった」とか。現場に入った人たちはそんな話をするんですが、当時の状況を知らない自分には、それが武勇伝のように聞こえました。

《苦い経験から得たモットーは「とにかく現場」》

日航ジャンボ機墜落事故は、すぐに現場に向かったカメラマンと、それができなかった者の落差があまりにも激しくて…。その先のカメラマン人生に大きく影響しました。あのときのことはトラウマになり、今でも深夜に汗だくになってとび起きることがあります。

それ以降は何かあると、あまりあと先を考えず、誰よりも早く「とにかく現場に入る」と考えるようになりました。実際、早ければ早いほど現場に近づけます。御巣鷹山の現場に向かうときも、報道関係者は警察や自衛隊と同じ条件で、夜明けとともに「よーいどん」で登ったわけですから。

だから、あの墜落事故の後は「思い立ったら行きましょう」ってなりました。今年の元日、能登半島地震が発生した際に、すぐにどう動くかを決めて行動したのは、発生から40年近くたった御巣鷹山の失敗が原点になっています。(聞き手 芹沢伸生)

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