夕刊フジといえば「オレンジ色のニクい奴」。実はもう一つの呼び名がある。それが「ぴいぷるの夕刊フジ」だ。《ぴいぷる》とは創刊当時、報道部長を務めた山路昭平肝いりの人物インタビュー企画『ひと・ぴいぷる』のこと。登場人物は最も《旬》な人たちばかり。1ページを丸ごと使い、写真もでっかく、文字を詰め込まず、余白を見せる―という当時としては画期的なレイアウト。しかも記者の突っ込みの鋭いのなんの。数々のスター記者を生んだのである。
夕刊フジが創刊されて1年が経過した昭和45年3月10日、東京・銀座の三越百貨店で創刊1周年記念『話題のぴいぷる展』が開催された。
自ら《話題の》と冠をつけるところがなんとも新聞社らしい。
1年間に登場した300人近い人物の中から厳選した約170人の写真と文章を展示した。パンフレットには山路のこんな文章が載っている。
「われらみな人間家族――人間が一番興味を感じるもの、それは《人間》です。愛し、恐れ、うやまい、憎む。人間が常にもっとも心ひかれるもの、それは《ひと》です。夕刊フジの『ひと・ぴいぷる』はそこから誕生しました。
いま街にあふれている〝ノゾキ趣味〟ではなく、といってお説教でももちろんなく、人間くささがプンとにおってくるようなページです」
夕刊フジの《顔》となる企画。それだけに書き手(記者)も直し手(デスク)も優秀な人が配された。彼らはスター記者となり、その後、産経新聞の中枢人物として成長していった。その代表的な一人が千野境子である。
42年、産経新聞に入社した千野は「教養部」に配属されたが、夕刊フジ創刊にともない転属。当時のことをこう回想した。
「うれしかったわ。その頃の女性記者はすぐに家庭欄や文化、文芸に回されて、男性記者のように支局で事件の取材をさせてもらえなかった。だから夕刊フジに行け―と言われたとき、男性記者たちは落ち込んでいたけど、私はこれでいろんな取材ができるとワクワクしたわね」
水を得た魚のように千野は事件事故はもちろん《ひと・ぴいぷる》の間を泳ぎまくった。夏目雅子、武田鉄矢、土井たか子、小林旭、唐十郎…。話を聞いた人を一冊の本にまとめ、『あの時の「私」を語る 夕刊フジ・千野境子の〝話題の人〟インタビュー』(三修社、マルチ・ブックス)を出版したほど。
ハラハラする内容
一番印象に残っているぴいぷるは?と尋ねると「その質問が一番答えにくいの。わたしにとってどれも一番だから」という。
「そうね、あえて挙げるなら五木ひろしさんかな。当時、週刊誌に書かれて話題になっていた田園調布の3億円の豪邸での取材だったから。よくOKしてくれたと思う」
というわけで昭和53年6月15日付の紙面を見ると…。
「日本人の平均身長から言えば決して小さくはないこの人(172センチ)が、オヤ、意外にきゃしゃな人だな、と思えてしまったのは、一体何十畳あるのか、やっぱりこの大きな応接間のせいかしら」といきなりスパイスの効いた強烈な書き出し。
千野が家の質問を続けると五木が「もう家の話はあんまりしたくないんです」という。すると「あら。なぜでしょう?」と聞き返す。
「だって大衆あってのボクですから。歌に関係ない話は…」
「そうねぇ。でも五木サンがどんな新居を建てたか、これもその大衆の関心の一つではあるんじゃない。それとも豪邸に住んだら大衆と離れるのが心配とでも?」
いやはや、読んでいるこっちがハラハラさせられる。だが、面白い。これが夕刊フジのポリシーである《つねに本音をついた人間中心の読み物»=「ひと・ぴいぷる」なのである。
千野境子(ちの・けいこ)昭和19年生まれ。夕刊フジを卒業したあと産経新聞外信部へ異動。マニラ支局長、ニューヨーク支局長などを務め平成5年、日本の新聞業界で初の女性外信部長となり、同14年、女性として初めての論説委員長に就任。筆者(68)よりひとまわり年上。髪を紫色に染めて颯爽(さっそう)と社論会議に出てくる千野委員長、格好よかったなぁ。
昭和は遠くなりにけり‥ 令和の今では不適切⁉
『ひと・ぴいぷる』では、後に芸能史を代表する存在に成長するブレーク直前のアイドルたちも登場していた。一般紙にない面白さを、新聞界に風雲を-。そんな思いから発足した夕刊フジらしさが発揮されていた。
ただ、当時の関係者に取材すると、現代からみれば、昭和チックでやや「不適切」な雰囲気も。半世紀近い前の話として大目に見てください。
昭和48年11月の紙面に載った山口百恵の貴重なセーラー服姿。2曲目の『青い果実』がヒットしたばかりで、まだ14歳の中学生。取材した細野憲昭は「中三トリオ(森昌子、桜田淳子)の中では地味な方だった。でも、大物になるような気がしてぴいぷるで取り上げた」と回想している。
東京・大手町の産経新聞東京本社近くのホテルで取材。学校から直接来たらしく制服姿で大きなカバン。化粧っ気のない笑顔がかわいい。
細野が「歌詞の意味は分かるの?」と意地悪な質問をすると「わたしボーイフレンドもいないし、男の子に話しかけられても恥ずかしい。歌詞も言葉としてはわかるけど、理解なんてとても…」と照れていたという。
こちらは水着姿の松田聖子。デビュー曲『裸足の季節』がヒットした直後だから55年6月の紙面。でも、なぜ、水着姿なの? 取材した加藤雅己(後に産経新聞常務取締役夕刊フジ担当。当時はデスク)によると―。
「そのころ、週刊誌でアイドルの水着姿がバンバン出るようになって、夕刊フジも負けてられない。週に2人は水着姿だ!という方針になった。誰がたてた方針か? オレだよ」
最初、プロダクションは別の女性歌手を連れてきた。その歌手は水着姿になるのがイヤで没。次に連れて来られたのが松田聖子。
「彼女も本当はイヤだったと思うよ。でも、18歳の新人、プロ根性があったね。『私、郷ひろみさんのファンなんです。ひろみさんに会いたくて芸能界に入ったんです』とケロリとした顔で言ってたなぁ」
加藤デスクの貴重な思い出である。(田所龍一)