《テレビ・ラジオで売れっ子となった三宅裕司氏。「公」だけでなく「私」にもうれしい出来事が。昭和61年3月24日、「ヤングパラダイス」(ヤンパラ、ニッポン放送)の生放送で、婚約記者会見を行ったのだ。その4日前に、「嫁さんが見つかった」と予告していた。お相手は天野(旧姓)正子さん。小学校以来28年の恋を成就させた会見には正子さんも同席した》
高校2年生のときにできた彼女から、大学入学直前に振られたことはすでに話しましたよね。
その彼女が今の奥さんです。
奥さんは、東京都千代田区立西神田小学校(現在は統廃合でお茶の水小学校)に、2年生のとき転校してきました。
僕はといえば、4年生から6年生まで、好きな子が毎学期変わっていました。奥さんは5年生の2学期に好きだった子でした。
うちの奥さんにとって初恋の人が三宅裕司だったそうです。「小学校の思い出は三宅裕司しかない」とも言っています。
《正子さんはその後、東京女学館高校、短大へ進んだ》
大学入学直前に別れた明確な理由はわかりません。何となく行き詰まったんでしょうか。
その後も、お互いに他の相手と付き合って、その相手と別れると連絡していました。バンドのパーティーや演奏会があると、僕の方から声をかけていました。
何度目かの付き合いをしていた27歳の8月初めごろ、僕が小学4年生のころから何回も行っている北アルプスの燕岳(つばくろだけ)に、彼女と2人で3泊4日の登山旅行に行きました。
兄が主宰している山岳同好会の案内状を1枚だけ実家で叔父に印刷してもらい、それを奥さんのお父さんに見せて団体旅行だと噓をついて。参加者用の切り取り線も入った手の込んだプリントでした。
夏山シーズンの混雑している時期だったので、燕山荘(えんざんそう)は雑魚寝状態です。夜中に彼女のトイレに付き添い、小屋の外に出ると手が届きそうな満天の星でした。そこで星たちの力を借りてプロポーズしました。
でも、奥さんのお父さんに経済的理由で反対されて、終わりました。まだスーパー・エキセントリック・シアター(SET)も立ち上げていないし、生活力もなかったですし。
その後、僕はSETをやりながら兄の経営する喫茶店で雇われ店長をしていました。彼女がそこでアルバイトすることはありました。
それからも別れたり、よりを戻したりすること7回。婚約発表の2年前、ようやく新宿のすし店で、酔っぱらいながらプロポーズしました。内容? 覚えていません、ということにしましょう。
《正子さんの存在は、SETの中ではすでに有名だったようだ》
古株の女優陣が「マコ(正子)さんならOK」などと大きなお世話なことを言っていたようでした。
《婚約発表から3カ月後の同年6月9日、思い出の地、東京・西神田で結婚式を挙げた。とはいえ、多忙な三宅氏はそのままヤンパラの生放送に出演。新婚旅行はお預けとなった》
奥さんは言い間違えをすることが多くて。ガソリンスタンドで「マソリン ガンタン」とか、しゃぶしゃぶ食べ放題の店で「たべたべしゃぶ放題」とか。天然なんですね。それも後にしっかり「マコさま」という企画ではがきを募集しました。
この間、73歳になった2人で「よく俺たち結婚したな」と言いました。いろいろな意味を込めて…。(聞き手 慶田久幸)