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大江戸新喜劇へ参加も気になることが 劇団不合格に主宰の小沢昭一さん「落ちてよかった」 話の肖像画 喜劇役者、劇団SET主宰・三宅裕司<9>

産経ニュース 2025年1月10日 10時0分

《明治大学卒業時、両親に「喜劇役者になりたいから5年だけメシを食わせてくれ」と頼んだ。目標はあるものの、どうすればいいのか分からない。そこで…》

花登筐(はなと・こばこ)さんが東京・有楽町にあった日本劇場(日劇)で上演していた劇団「喜劇」の楽屋を訪ねたんですよ。そうしたら、「オーディションを受けてください」って言われて。でも受けずじまい、そのままでした。

《花登氏は放送作家、脚本家、小説家。貧しい旅館を名旅館に発展させた「細うで繁盛記」や、一代で大企業を作りあげた人物を描いた「どてらい男」などの作品で知られる。昭和58年死去。享年55》

よく考えたら(オーディションには)行かなくてよかった。間寛平さんとか、アホの坂田こと坂田利夫さん、チャーリー浜さんらの、笑いに徹するすごさ、大阪の「強い笑い」の文化を見たときにはぐっときましたからね。

やがて母親のつてで日本テレビタレント学院に通うことに。でもこの学院は16、17歳くらいの若い子が多かった。僕は大学を卒業していたので22歳ですから、その中では演じたりしゃべったりするのは優秀なほうでした。でもつまらないわけですよ。

ここに同じ演劇志望のヤツがいて、それが今も劇団「スーパー・エキセントリック・シアター(SET)」にいる永田耕一君です。彼とは腐れ縁ですよね。

永田君はそこから文学座の演劇研究所に行くんです。私は小沢昭一さんが主宰する芸能座を受けたんです。「次に会うときは芸能座だ」とか言って。

《小沢氏は俳優、ラジオパーソナリティーとして活躍するかたわら、各地の伝統芸能や大道芸を発掘する研究家としても知られる。芸能座は昭和50年に立ち上げた劇団で、旗揚げ公演は永六輔氏が脚本を書いた「清水次郎長伝・伝」》

高校、大学などそれまで試験に落ちたことなかったんですが、芸能座で初めて落ちたんです。後日、NHKで小沢さんと共演したときに「実は僕、芸能座を受けたんですよ」って言ったら、小沢さんから返ってきた言葉は「いやいや落ちてよかった」だって。

あるとき、雑誌を見ていたら、「『東京新喜劇』の劇団員を募集」と載っていたんですよ。脚本家の才賀明さんの劇団でした。私は「これだ!」と思って応募しました。ただ、「浅草の灯を消すな」というのが気になった。そのころの浅草はさびれてましたから。

入団すると劇団名が変わりました。すでにコメディアンのポール牧さんの劇団が東京新喜劇と名乗っていたので、大江戸新喜劇となったのです。集まったメンバーの顔合わせのとき、同じ明大出身の斎藤洋介君や劇団青俳の人たちが結構いました。

《斎藤氏は善人役から悪役までこなす、幅広い演技力の名脇役として活躍。バラエティー番組では飄々(ひょうひょう)とした雰囲気で人気を得た。令和2年死去。享年69》

大江戸新喜劇の立ち上げに永田君もいたんですよ。「おお、久しぶり」って。これでやっとやりたい喜劇役者になれました。舞台は浅草のコメディーなので、人情喜劇が多かったです。大宮敏充(デン助)さんの「デン助劇団」のようなね。

《大宮氏は浅草生まれの喜劇俳優。浅草松竹演芸場を拠点に、ハゲ頭に大きな目玉、青い口ひげで腹巻きに草履姿の実在したとされる人物をモデルにしたデン助が当たり役となった。昭和51年死去。享年63》

浅草の軽演劇ってアドリブや誰かのギャグ、人気者で持っているんです。でもそれは、ほかには何もない時代のものですから。(聞き手 慶田久幸)

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