昭和17年の東京はまだ平和だった
子供の頃は恥ずかしがり屋で歌も1人では歌えず、いつもコーラス。学芸会のお芝居に出たこともありませんでした。父は大阪商船に勤める船乗りで何度かの転勤の後、東京の豊島区に住みました。母は主婦でしたが、若い頃は歌手を目指していたようで、浅草のオペラに通っていたそうです。
私が音楽を好きになったのは、そんな母の影響でしょう。歌は今でも好きで月に1度は、まだレッスンに通っているんですよ。古き良き日本の曲やイタリアの曲を楽しんでいます。
昭和17年、5年生になった頃からピアノに夢中になりました。前年12月に真珠湾攻撃がありましたが、当時の東京はまだ平和でした。先生に習って一生懸命練習しましたが、家にピアノがなく、近所の家のオルガンをお借りして弾いたこともありましたね。
19年に都立第十高等女学校(現豊島高校)に進学しましたが、戦況の悪化で茨城県下館の親戚のもとに疎開しました。向こうの女学校では、勤労動員で農家の手伝いもしました。
松根油を飛行機の燃料に
家族と離れて寂しかったですけど、空襲などで怖い思いをすることはなかった。ただ、ある夜、東京の方角の空が赤く染まっているのを見て「池袋の家も焼けてしまった」と思ったのは今でも覚えています。
その後、母たちも茨城に疎開して、私は潮来の女学校に転校しました。そこでは松根油を飛行機の燃料にするために毎日学校の裏山に行って松の木の根っこを掘っていました。
終戦の8月15日は体調を崩して学校を休んでいたら正午に玉音放送があったんです。内容はよく分かりませんでしたが、「これで東京に帰れるかな」と思いました。
東京に戻ったのは20年10月。当時の池袋駅は地下を通って外に出たんですけど、階段を上がったら何もないんです。建物が全部燃えてなくなっていた。あれはショックでした。それでも自宅は幸いなことに無事でした。
溝口健二監督の作品が転機に
映画の世界に入るきっかけは女学校卒業を控えた24年に新聞で見かけた「ニューフェイス」の募集広告です。卒業後は銀座の時計店へ就職しようと考えていましたが、最終的に女優の道を選びました。
「五社協定」という大手映画会社による専属協定が始まる前にフリーになったこともあり、成瀬巳喜男、小津安二郎、溝口健二、黒澤明といった巨匠監督方とお仕事をする機会に恵まれました。
女優として転機になったのは溝口監督の「近松物語」(29年)の「おさん」役です。娘役ばかりだった私にとって、人妻や京都弁の役柄は初めてで…。
監督さんは多くを語らず「(相手の芝居に)反射してください」とおっしゃるだけですが、私にはどう演じればよいのか分からず、途方に暮れました。あるシーンで何度もOKが出ず、疲れて転んでしまったのです。同時に感情があふれ出て、それをそのままぶつけたらOKでした。あの経験は後の黒澤組でも生かされたと思います。
これまで出演した映画は130本ほどになります。今の映画はテレビの影響か、少し騒がしく感じることもありますが、昭和の映画は静かに没頭して見られるのが良いところです。日本映画の全盛期を支えた方たちと出会えたことが私の人生90年の何よりの宝になりました。(聞き手 石井昌)