昭和54年2月26日、和歌山県太地町の太地突棒船とその僚船8隻は野生のシャチ5頭を定置網に追い込み、国内初となる無傷でのシャチ生け捕りを果たしました。5頭は同町の森浦湾の円形金網いけすに運ばれ、その中から雌雄2頭を同町立くじらの博物館が購入し、飼育を開始しました。
「これほどかたくなに餌を食べないシャチはいないのでは」と当時を振り返ったのは、主任としてシャチ飼育に臨んだ松井進氏です。追い込みから3日がたった3月1日、松井氏はイルカの餌である解凍したサバをいけすに投げ入れ、シャチにやりましたが、全く反応がありませんでした。
翌日から、棒の先端にサバを取り付けてシャチの口元へ近づけたり、直接手から差し出したりしても食べませんでした。また生きたサバやブリ、さらにはイルカの表皮や筋肉も餌として試すなど、手探り状態でした。
いろいろ試していく中で、2頭はサバをくわえるようになりましたが、しばらくすると放すのでした。次第にシャチは痩せていき、背びれの付け根や頭頂の鼻の辺りにくぼみができ、そこに海水がたまりました。
餌付け開始から1週間後の3月8日、シャチのいけすに、飼育中のバンドウイルカを搬入しました。イルカが餌を食べている様子をシャチに見せて、摂餌を促すのが目的です。しかし期待は外れ、シャチは餌を食べるイルカに口を大きく開けて、威嚇したのでした。
松井氏は「イルカを食べるなら、それでも構わなかった」と、当時頭に過ったことを思い起こし、飼育員らが背負う重責と焦りが伝わってきました。
一向に餌付かない状況に、松井氏は「もう一度餌付け方法について検討する必要性を感じた」と白紙に戻し、「使用しているサバなどが、鮮度や大きさなどの点から不適合ではないか」と餌を見直すことを決めました。
日本近海のシャチの食性に関し、故西脇昌治氏の著書「鯨類・鰭脚類」によると、「魚類を食べていたものが最も多い。タラ、カレイ、ヒラメ類が多く、イワシ、サケ、マス、マグロ、カツオがこれに次いでいる」という記載がありました。こうして、この時期に熊野灘沿岸で漁獲される大型魚種、ビンナガマグロを試すことになったのです。
3月23日、同県那智勝浦町の漁港に水揚げされた約7キロのビンナガマグロを、頭部がついた状態で2枚におろし、その尾部をロープで縛って、水面下1メートルほどにつり下げました。
「シャチはゆっくり近づき、マグロの腹の方をしばらくじっと見て、突然ガブッと嚙みついた。首を振って、辺り一面に肉を散らかせて、それを拾い、ついに食べた!2口目は、ためらいなく豪快に食らいついた」。松井氏はその時のことを興奮気味に語りました。この日、別の1頭もビンナガマグロを食べ始めました。
雄は「太(タイ)」、雌は「地(チー)」と名付けられ、同年4月9日、2頭はくじらの博物館に搬入されました。太は飼育1193日を記録し、昭和56年1月には、くじらの博物館初となるシャチのショー公開に至りました。
(太地町立くじらの博物館館長 稲森大樹)