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レイテ沖海戦80年 撃沈の空母「瑞鶴」奈良で慰霊祭 生還兵の娘がつなぐ不戦の願い

産経ニュース 2024年10月26日 11時52分

昭和19(1944)年10月25日、先の大戦のフィリピン・レイテ沖海戦で旧日本海軍空母「瑞鶴(ずいかく)」が米軍に撃沈されて80年。瑞鶴は、戦艦「大和」など主力の援護のための「おとり作戦」として使われ、乗組員約1700人の半数以上が戦死したとされる。生還した元乗組員の娘、松木祥子(しょうこ)さん(68)=奈良県橿原市=は「父は生前、あの日のことはあまり話さなかった。ただ、次の世代に戦争の体験だけはさせたくないと語っていた」と回想する。

戦没者追悼の石碑「瑞鶴之碑」は、建国の地として初代・神武天皇をまつる同市の橿原神宮境内地にあり、今年も25日に遺族らによる慰霊祭が営まれた。

碑は、遺族らで作る「軍艦瑞鶴会」が昭和56年に建立。隣には同48年に建てられた旧海軍甲種飛行予科練習生(予科練)13期生戦没者慰霊碑「殉國之碑」がある。一帯は若桜友苑(わかざくらゆうえん)と呼ばれ、若い桜のまま散っていった友をしのぶ追悼の場となっている。

松木さんは瑞鶴会の世話人代表を務め、元乗組員だった父の戦友から当時の話を聞く機会が多かった。ただ、父の西岡稔さん(享年79)は娘に多くを語らないまま平成10年に他界した。

稔さんの大阪市内の自宅には、海軍時代の写真や名簿などが大切に保管されていた。

軍人手帳には、入隊からの軍歴などが詳細に記されている。昭和16年9月25日「瑞鶴乗組ヲ命ズ」、12月8日の欄には「宣戦ヲ布告セラル」と記述。真珠湾攻撃や他の海戦などで瑞鶴に乗り込み、通信兵などを務めた。

真珠湾攻撃などで戦果を上げた瑞鶴は「殊勲艦」としてたたえられたが、レイテ沖海戦では米軍を引き付ける「おとり作戦」に従事。艦載機も十分ではなく、10月25日午後2時14分、ルソン島北部のエンガノ岬沖で沈没。稔さんらは海に飛び込んで、駆逐艦に救助された。

当時の状況について稔さんの戦友は、松木さんにこう語った。「兵士が懸命に泳いでいると、米軍機の機銃掃射がほとんど正確に狙いをつけて撃ってきた。よく生き延びた」。稔さんは「すごい距離を泳いだ」と言葉少なに話したこともあった。

稔さんは晩年、死期が近づいたのを知ったのか、「瑞鶴之碑に行きたい」と家族に打ち明けた。平成10年秋、大阪市内の自宅から橿原神宮を訪れ、碑のある若桜友苑に車いすで向かった。「父は、碑の前に来ると突然車いすから立ち上がって敬礼をしたんです」と松木さん。それから1週間ほどして息を引き取ったという。

今では父の戦友も次々と鬼籍に入った。3年前に大阪在住の102歳の男性も他界。松木さんに「あとのことは頼むわな」との言葉を残した。

「瑞鶴之碑には、父や戦友たちの思いが詰まっている。そのことを胸に刻んでこれからもお参りするのが私の務めです」

25日に瑞鶴之碑の前で営まれた慰霊祭には遺族ら約100人が参列。瑞鶴が沈没した午後2時14分に合わせて黙禱(もくとう)をささげた。(小畑三秋)

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