《昭和58年5月、ニッポン放送の番組「高原兄(元アラジン)のヤングパラダイス(ヤンパラ)」(月~木曜日、午後10時~午前0時)が始まった。そのヤンパラに「SET(スーパー・エキセントリック・シアター)劇場」という5分間のコントコーナーができる。三宅さんのラジオ初レギュラーだ》
(「SET劇場」は好評で)ヤンパラの後に放送される、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の高橋幸宏さんの「オールナイトニッポン」でも、SETはレギュラーになりました。
そのころは文化放送の「吉田照美の夜はこれから てるてるワイド」(月~金曜日、午後9時~午前0時)が大人気でした。「打倒文化放送」で始まったのがヤンパラです。
《吉田氏は当時、文化放送のアナウンサー。突撃リポートや隠しマイクでの潜入など破天荒な企画で人気を博した》
「打倒文化放送」で始まりましたが、ヤンパラは何かがうまくいかない。吉田さんがライバルではかなわないんですよ。みんな、どうしてもイライラしちゃう。聴取率が取れないということはそういうことなのでしょう。そばにいて、高原さんがかわいそうでした。
そこでプロデューサーの宮本幸一さんは、パーソナリティー自体を変えようということにした。宮本さんはいろいろな人のオーディションテープを録(と)っていました。中にはとんねるずとかもいたらしいのですが。
でも宮本さんの上司は、どのオーディションテープを聴いてもOKを出さない。ところが、私のテープを聴いたらOKを出したというのです。話した内容は、私が友達と車2台でスキーに行ったとき、日光街道でやくざに脅かされた経緯でした。
翌年2月、「三宅裕司のヤンパラ」が始まりました。でも演じる笑いをずっとやっていた私はフリートークが苦手です。そこで三宅裕司を生かすために、それぞれの曜日の放送作家が毎週、宮本さんを中心に会議をやっていろいろな企画を出してきました。私は会議には出ず、その日に企画を渡され、それをやるような感じでした。
本番でもオーディションテープと同じ、やくざとの遭遇を話すことにしました。それが話題となって。「みんなもそういう怖い思いしたことあるか」と体験談を募集し、それで「あなたも体験 恐怖のヤッちゃん」というコーナーができました。
そのうちに「三宅がやっているはがきを読むコーナーが面白い、それは(はがきに書かれた人物たちを)演じているからだ」とみんなが気づいた。脅す人と脅かされた人のセリフを私が二役で演じると、アナウンサーがやるより全然面白いって言うのです。
「ハガキ職人(はがきを出すリスナー)」までが、会話調で送ってくるようになりました。兄が恥をかいたとか、いつも怒っている学校の先生が恥をかいたとか、それを全部、ヤッちゃんという名前にしちゃったというのもあるんですが。
《大人気となった「恐怖のヤッちゃん」は書籍化されてベストセラーとなり、映画(東映、金子修介監督)にもなった》
(ヤンパラでは「恐怖のヤッちゃん」のほかにも)この間亡くなられた中山美穂さんに、ミカン箱の上で歌ってもらったこともあるんですよ。チェッカーズがファンの家を急に訪ねる企画とかもありました。
《そのかいあって、年末の聴取率調査で、長年のライバル「てるてるワイド」をとうとう抜いた。ニッポン放送は社内が大騒ぎになったという》
聴取率が3%とか言うんです。テレビでは15%、20%が当たり前の時代ですから、私にはピンと来なかったのですが。(聞き手 慶田久幸)