1歳の誕生日を迎える直前に出征し、シベリアで抑留死した父を追慕する戦後だった。約20年にわたり戦没者遺骨収集に参加している奈良県香芝市の吉崎龍平さん(83)は体調がすぐれず、今夏の参加を見送った。「今も戦没者は帰りたいと思っているはず」。無念の思いを抱えながら、終戦の日の15日は東京で全国戦没者追悼式に参列し、靖国神社で父に会うつもりだ。
今夏の参加は断念
「体調さえよければ、なんぼでも行くんですが…。皆さんに迷惑かけられんしね」。昨年も訪れた中央アジア・カザフスタンでの活動参加を断念した胸の内を7月に明かした。
物心ついたころには、母と2人の姉との4人暮らしだった。
奈良県大和高田市で自転車修理店を営んでいた父の宗次(そうじ)さんは、昭和16年8月に30歳で出征。母が店を切り盛りし、家族で父の帰りを待ちわびたが、父は当時のソ連に抑留され、22年7月に36歳で亡くなった。
父は、息子の誕生を喜び、抱き上げて町内に触れ回ったと聞かされたが、父親という存在や感覚がわからなかった。「お父さん」。それでも自分が親になり、わが子が発した言葉に心が震えた。警察官として仕事に励む傍ら、自分が経験したことがない父子の時間を大切にした。
国は当初「無理」
平成8年、遺族会の慰霊巡拝で初めてシベリアの大地に降り立つ。「どんなにか帰りたかっただろう」。父に思いをはせた。退職を機に14年からは遺骨収集に参加。土中から姿を見せた頭骨の泥を手で落としながら、抑留を強いられ再び祖国の地を踏めずに命果てた日本兵の無念を思うと、幾度も涙がこぼれ落ちた。
16年には、父が抑留され埋葬された西シベリアのロシア・ケメロボ州を訪問。その後、日本に遺骨を帰還させるよう厚生労働省に要請したが、「周囲に現地住民やドイツ兵の墓地があるので無理だ」と説明された。
それでも埋葬図には、父を含め抑留死した兵士55人が記載されており、諦めきれずに厚労省に再び要請した。令和元年9月に現地調査が実施される予定だったが、直前に中止が決まった。
理由は定かでないが、同年夏、ロシアで収容された遺骨の中に日本人以外の骨が混在していたことが発覚。ロシアによるウクライナ侵略の影響もあり、ロシアでの遺骨収集自体が中断したまま再開の見通しは立たない。
15日は靖国で父と
父の死から77年。15日に日本武道館で行われる全国戦没者追悼式に参列するため、14日夜からバスで東京へ向かい、靖国神社の境内で亡き父を思いながら、妻の手作りの弁当を食べるつもりだ。
厚労省によると、旧ソ連で亡くなった日本人約5万5千人のうち、6割にあたる約3万3千人の遺骨が残されたままだ。
「父たちは国のために亡くなった。戦地に行くときは歓呼の声で送ったのに、その後は見向きもしないというのは…」
父の年齢を大きく上回った息子は、一刻も早い活動再開を願う。(池田祥子)