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スマートな薩摩っぽの父 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<12>

産経ニュース 2024年9月13日 10時0分

《父上の藤崎萬里(まさと)氏は、大使や最高裁判事も務めた。鹿児島出身ですが、なぜ外交官になったのでしょう》

父は鹿児島県指宿市の最南端の山川の出身です。生家は医者で、子のない伯母の家に養子に出されます。そこでは父を人力車に乗せ、養父が横を歩くほど大事にされました。たまに実家に帰るとそのまま留め置かれるのが心配でたまらなかったと言っていました。小学校5年から飛び級して当時の鹿児島一中(現鶴丸高校)に入ったときは「こんな田舎から一中に」と村中でびっくりされたそうです。薩摩半島の先の村までは電車も道路もなく舟で鹿児島市に行ったとのことです。

七高(現鹿児島大学)を首席で卒業。東京帝大英文科に入り、英語で小説を読むのが好きで、外務省で忙しいときも英語の小説を読みふけり皆を驚かせていたようです。福田恆存(つねあり)さんや吉永小百合さんのお父さんと同級でした。サユリストだった私が学生時代、吉永さんを紹介してほしいと水を向けましたが相手にされませんでした。

父は大学を出ますと、教員しか就職口がない。教えるのは苦手だったので法科に学士入学し、外交官試験を受けて外務省に入りました。父の縁で私は今、東京における鹿児島、宮崎出身者の親睦団体「欣交会」の会長をしています。

《父上は条約畑ですね》

米国留学後、在米日本大使館に勤務します。戦後は終戦連絡事務局に勤務し、憲法草案の翻訳などに従事しました。外務省では政務局政務課長をやった後、もっぱら条約畑で勤務します。1951年のサンフランシスコ講和条約締結のとき外務省条約課長として随行し、60年の日米安保改定では条約局次長、65年の日韓基本条約のときは条約局長でした。また賠償課長などもやり、いわば日本の戦後処理の裏方をずっと務めてきました。また局長時代は現上皇、上皇后両陛下への国際情勢のご進講役を務め、尊敬申し上げていました。

オランダ大使時代に所管外なのにいちはやく日中国交回復すべしと意見具申したりして波紋を広げました。昭和天皇、皇后両陛下のご訪問があったとき元兵士の狼藉(ろうぜき)などがあり、批判を受けたこともあったようです。タイに勤務後、下田武三さんのあと最高裁に入りました。大阪空港公害訴訟で少数意見を書いたりしていました。天職を得たようでした。

《退官後は何を? また、父親としていかがでしたか》

弁護士などになる道もありましたが、一切仕事はしないという考えでした。テレビでスポーツとお笑い番組を見て散歩するだけで20年余過ごしました。父なりの美学でした。

戦後の貧しい時代は、公務員宿舎でつましい生活でした。忙しい父が正月に親類の特徴を詠み込んだ手作りかるたをつくったり、家でギョーザを家族みんなでつくったり、共済組合の宿舎を旅行したりしました。後から思うと感心します。父の性格は冷静に先を見て、淡々として飄逸(ひょういつ)、群れずというものでした。経緯にこだわらず急に本質論を言い出して局面を転換させることもあったようです。

ユーモアはありましたが、男子たるもの衣食につべこべ言うことはまかりならぬという薩摩っぽで、私はグルメやおしゃれとは縁遠く育てられました。入省後、他の人の食事への関心に驚き、もっと身だしなみを整えよと上司に諭されました。

《同じ外交官の道でしたがどんな交わりでしたか》

あまり教訓めいたことは言わず、自分の背中を見ればわかるというタイプでした。父が晩年、脳梗塞をわずらってからは私が車椅子を押してよく散歩していました。双方の照れもあってか、あまり仕事の話をしたことはありません。でも父だったらどう考えるかと思うことはあります。(聞き手 内藤泰朗)

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