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ベテラン通訳が来なかった 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<11>

産経ニュース 2024年8月11日 10時0分

《昭和34(1959)年春、早稲田大学第一文学部(当時)に入学。通訳のアルバイトも始めた》

通訳として最初に大きな仕事をしたのが、中華民国大使館主催のシンポジウム。あのころはまだ国交があり、日本に大使館があった。私が民主化や独立運動に身を投じる前だったから、国民党も警戒していなかった。あのころの複雑な中国の事情を取り上げる、専門家が集まるシンポジウムよ。

2日間で講演やディスカッション、質疑応答と重労働だったけど、1日2千円と好条件。当時はOLさんの初任給が8千円という時代だったから、大学生にとっては大きいよね。通訳には私と、それまで大使館のイベントに呼ばれていたベテラン男性、そして何かあったときのバックアップでNHKの中国専門の人も出席していた。

通訳は初日は私がメインで、2日目はベテラン男性が担当することになっていた。私は無事に初日をこなし、2日目はサポートか、と思って会場に行ったら、ベテラン男性が来ていない。「風邪で欠席」だという。それで2日連続で私が通訳をすることになった。

なぜ来なかったのか。私が初日、そつなくこなしたので、ベテラン男性は面子(メンツ)が立たなくなったのではないか、と思った。彼はおそらく外省人(終戦後に台湾に渡ってきた人)で、本省人(終戦前から台湾に住んでいた人)である私と比べられるのを恐れたのではないか、とも。通訳の仕事でもそんな思いを抱かせるのが、一党独裁の当時の国民党だった。

《語学力はどこで磨いたのか》

英語で「It’s written on the wall」という言葉がある。人生の半分は最初から壁に書いてある、その人がどういう運命を背負っているのか、半分は神様が決めている、というのよ。でも残りの半分は努力。そこから努力するかしないかで、その後の人生が変わっていく。私はその努力が苦手で…。

あのシンポジウム以降、大使館の通訳で、私が「First choice(第一選択肢)」になった。公でない場でも大使館から声がかかり、稼ぎがいいのでオファーは受ける。でもこれが後々、台湾の民主化、独立運動に飛び込んだときに、あらぬ疑いを生んでしまうとは、そのときは思いも及ばなかった。

《国際見本市でも活躍》

東京・晴海で開かれた国際見本市で、中華民国展がスタッフを募集していたので応募したら、「もう決まっている」といったんは断られた。でも担当のお役人さんはジェントルマンで、まあお茶でも、とソファに座って雑談に誘ってくれたの。

そこでいろいろと話しているうち、私がかつて台北国際学舎(通称・アイハウス)で働いていたと言うと、「えっ、君はピーター・ツアンさんの知り合いなの」と彼が言う。アイハウスで私は館長秘書、ツアンさんは副館長だった。そのお役人さんはツアンさんと知り合いだったみたいで、それが縁で見本市のアルバイトに採用された。人生、分からないもんだよ。

その見本市で、幼なじみの本省人のお母さんにばったり会った。観光で日本に来ていて、見本市を訪ねたのだという。そのお母さんの顔を見たら、なぜか涙が止まらなくなった。おそらく人前で泣いたのは、人生でこの一度きりだと思う。

強気でつっぱっていたけど、張りつめていたんだろうね。私にもそういうところはあるのよ。(聞き手 大野正利)

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